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『上井覚兼日記』天正2年(1574)8月1日~5日条 [上井覚兼日記]

長年放置していたこのブログですが、気が向いたので、『上井覚兼日記』の現代語訳を連載することにしました。
暇な時にだけ、ちょくちょく追加していきます。
底本は、『大日本古記録 上井覚兼日記』(岩波書店)。ほとんどが、東京大学史料編纂所蔵の覚兼自筆本ですが、一部欠本を都城島津家史料本で補っているようです。

まずは、天正2年(1574)8月1日~5日条。この年、覚兼は30歳。島津本宗家当主義久の奏者で、薩摩国永吉(鹿児島県日置市吹上町永吉)の地頭を兼務。基本、鹿児島の義久居城である「御内」(内城、鹿児島市大竜町)付近の仮屋に常駐し、御内に祗候している時期です。


一日、恒例どおり。太刀一腰・青銅(銅銭)百疋を(義久に)進上した。(義久からの)御返礼として、太刀一腰・弓一張を下賜された。
 今朝、入来院重豊殿(薩摩国入来院国衆)、太刀を東鄕重尚(薩摩国東鄕国衆)の次に献上するよう、(義久が)仰った。御老中からは、「東鄕・祁答院・入来院の三家は同家なので、東鄕の次には根占(祢寝重長)殿の太刀をお受けになるべきである」と、強く申し入れがあった。入来からの使者村尾蔵人が申すには、「若輩でありますので、罷り帰り、入来院弾正忠(重豊)に相談の上、後日対応を決めたい」とのことであった。考え直すように伝え、「その家(渋谷一族)が誰か一人諸人の上(トップ)をつとめたならば、庶子は誰の次に献上したとしても、問題ない」と(老中は?)仰ったのだが、かの使者(村尾)は納得せず、同意の返事さえせず退出した。かの使者の介添えは、本田因幡守親治と拙者がつとめた。
 この日、拙者は、御一家・国衆の奏者を担当した。
 この日の晩、旧例のように、一王大夫(河野通貞)が(御内=義久居城)殿中にて、式三番をおこなった。各々片衣を脱いでおこなった。拙者は、「通之衆」を承り、銭十疋を請け取った。
二日、早晩に出仕した。平佐地頭(野村秀綱)から、衆中二・三人をどこかに召し移して欲しいとの申し出有り。「平佐は国境なので、なお人数を多く配置しておくべきであるので、衆中をよそへ移す件は許可しない」と仰ったので、その通り伝え、(野村)は帰って行った。
 この日、上原長門守(尚近、日向飫肥地頭・奏者)に相談した。吉利(日置市日吉町)と野頸原(日置市吹上町永吉)とで、畠地について六月頃から相論がおきている。それについて、役人二人が、御老中の意見(答申)により召し放たれてしまった。これをどうするからについて、以前から(義久への)取りなしを(上原に)お願いしていたので、(義久の)内々の意向をうかがった。すると、伊集院右衛門大夫(忠棟)殿に相談し、五日前に吉利に(役人を)召し直すよう命じられたので、きっと元に戻っているだろうとのことであった。いまだ復帰していない旨申したところ、 そのうち御的について、(義久が)書状を送るので、その袖書きに早々に召し直すようお命じになるとのことであった。
三日、いつものとおり出仕した。鎌田外記(政心)殿・鐘林庵・松山隠岐守殿・有屋田名字の人、この四人が同心して(御内に)参上した。鐘林庵は、無住の小庵があればご下賜いただきたいと訴え、空きが出来次第遣わすとの(義久の)回答を得て帰って行った。有屋田殿は、蒲生への移動希望であった。伊集院右衛門大夫(忠棟)殿にこの旨を伝えたところ、蒲生に所領の空きは出来ないだろうとのことだったので、その旨伝えて帰した。
四日、出仕しなかった。この日は、喜入(季久)殿の御仮屋にて、寄合中(老中)が揃って談合。川内(薩摩川内市中郷付近)から水引(同市水引町、島津薩州家義虎領)に対し、火を立てる(攻撃をしかける)旨、東鄕重尚の連絡はなかったかと、(老中から拙者に)お尋ねがあった。まったくそのような話は知らない旨申し上げた。あるいは、白浜周防介殿(重政、東郷氏庶流)なら知っているかもしれないということになり、我等(奏者)から尋ねたが、彼も聞いていないとのことであった。
五日、相手組の弓矢があった(対戦形式の弓競技?)。平田平二郎殿殿(宗応)が相手であった。この日は拙者が亭主をつとめた。
 この日、殿中において、上原長州(尚近)に相談した。吉利忠澄と相論となり役人共が召し放ちとなった件。吉利忠澄から何も連絡がないので、このまま彼らを召し使ってはならないということでもないだろうから、見参(その役人を引見=再雇用)する旨、(義久に対し上原を通じて)届け出た。吉利からいままで異議申し立てが無いのなら、早々に見参するのがいいだろうとのご回答だったので、彼らを召し寄せ再び役人を申しつけた。
 この日は、大酒を飲んだので、後日のために、瀧聞宗運(奏者)に上原長門守への返事を依頼した。

(解説・補足)
 基本、覚兼がつとめる「奏者」とは、島津本宗家当主義久と、老中(近世の家老)以下家臣や国衆、寺社との「取次」を担う役職です。義久の側近です。
 この期間も、贈答品をやりとりする「八朔」の儀式において、当主義久と御一家(島津氏一門・庶子家)・国衆(非島津氏の有力領主)の取次を担当しています。プライドの高い入来院氏の使者が、贈り物を義久に献上する順番について、祢寝氏の次になったことを承服せず、帰ってしまったようです。それは、伊集院忠棟ら老中の指示だったようですが、使者への応対は覚兼ら奏者の役割であり、とりなしに苦労しているようです。
 2日・3日条からうかがえるように、領内各地の要所に配置された「外城」を所管する地頭や、その地頭配下の「衆中」の移動希望、坊主の寺が欲しいのとの訴えも、覚兼ら奏者が、義久や老中に取り次いでいます。
 ただ、2日・5日条からうかがえるように、みずからが紛争当事者になった場合は、自分では義久・老中に上申できず、同じく奏者の上原尚近に取次を依頼しています。

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