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『上井覚兼日記』天正2年(1574)8月6日~10日条 [上井覚兼日記]

天正2年(1574)8月
六日、天満宮(現在の菅原神社ヵ、薩摩川内市国分寺町)仮殿が廃壊した。合戦にめでたく勝利したので、前代のように宝殿の造立を、国分筑前守(定友)みずから御内に参上して陳情した。あわせて、前代の棟札・切符(寄進状の類ヵ)を持参した。(義久の)返事は、「陳状の件は一々聞き届けた。新田宮造立を企画したが、これでさえ未だ成就していない。現時点では(天満宮造営は)難しい。追っていずれ談合するであろう」とのことで、(国分を)帰された。同社の権宮司もお目に掛けた。中折(半紙の一種)一束を進上した。国分殿は、お茶を進上した。
 この日、伊地知殿(重興、大隅国下大隅国衆、この年島津氏に降伏して出家していた模様)が還俗した。太刀一腰・鳥目(銅銭)三百疋を進上した。拙者が受け取り、(重興は)周防守に任じられた。
七日、新田宮の執印殿・千儀坊が同心して、権執印・座主に対して訴えを起こし、御内に参上した。座主・権執印を召喚するということで、二人はしばらく鹿児島に逗留するとのこと。
 この日、肝付(兼亮)からの使者薬丸弾正忠(兼持)が鷲羽を一尻持参して、拙宿に来た。いつものとおり、酒でもてなす。
八日、いつものとおり出仕した。入来院殿(重豊)に先月命じられた件についての、(入来院側からの)返事があった。(奏者の)本田下野守殿(親貞)・伊地知勘解殿(重秀)・拙者の三人で承った。入来院側からは入来院殿(重豊)・山口筑前守(重秋)・東鄕美作守が意見を申した。(御内の)護摩所にて承った。その内容は、「先月祗候の際、(島津氏に対し)野心があるのでは無いかと疑念を持たれたが、(義久の)御一言のみで身上(国衆としての地位)を保全され、もったいなくありがたい」とのこと。「そこで、諸人(ほかの国衆たち)が、野心のある者と肩をならべることはできないと仰っているのだろうか。(入来院氏としても)諸人から認めてもらえるようわきまえるつもりだ」とのこと。もっともなことである。それにつき、「拝領の所領を進上したいと思う。(奏者から)御老中のどなたかにお取り次ぎをお願いしたい」とのこと。そこで、老中の村田殿(経定)・平田殿(昌宗)に取り次ぎ、(義久の)御前に披露するとのことであったが、(義久の)ご機嫌がよくなかったので、披露はしなかった。
 河辺(南九州市川辺町、地頭平田宗張)と鹿児(枕崎市、島津忠長領)に相論がおきた。左馬頭殿(忠長)の意向を確認すべく、老中の使者として、伊地知勘解由殿(重秀)と拙者が一昨夜(八月六日夜)、(忠長の鹿児島仮屋に)参上した。ご意見を腹蔵なくおうかいがいしたいと申したのだが、ご本人は姿を見せなかった。ご意向としては「川辺にて、盗人孫左衛門が射殺された。その家(盗人が入った被害者宅ヵ)には、ただ夫婦だけがいたのではない。どのような事情があったにせよ、その治所(鹿児)にて処分すべきであったものを」とのこと。「盗んだ馬・人が既に無いとしても、代物を引き渡すべきであるが、老中がそれを承服しないのは、不満である」とのこと。この意向を、川辺の使者金田殿・折田殿両人に尋ねたところ、まったくそんなことは聞いていないとのこと。それから、(地頭の)平田新左衛門尉殿(宗張)が(御内から)下城されていたところを、南林寺・興国寺などの門前まで追いかけて、「左馬頭殿(忠長)が鹿児島に逗留中に相論は決着するでしょう」と伝えて、両使は早朝帰した。
 この日、相手組御的(八月五日)の返報(平田宗応が亭主の的ヵ)。
九日、いつものとおり出仕した。(浄)光明寺(其阿西嶽)が肝付にいくことになり、(義久の)御用があるだろうと(御内の)殿中に出仕された。拙者が御使(取次)をつとめた。義久から肝付氏への意向は、「庄内(北郷時久)と肝付(兼亮)の和睦をたびたび命じていた。庄内からは肝付氏に対し所領の割譲を求め、肝付はそれを拒否している。このため和睦交渉が難航している。このままではまずいので、義久から庄内に対し、手をいれ(妥協を求め)和睦実現を図りたい。道場(其阿西嶽)が肝付に逗留中に、庄内に使僧を派遣し、互いに面会するよう命じる」とのことであった。浄光明寺は領掌し、肝付へと向かった。
 この日、未刻(午後二時頃)、平佐(地頭野村秀綱)から書状が到来。内容は、「中郷(薩摩川内市中郷付近)へ東鄕勢二・三百ほどが攻め入り、(薩州家義虎が配置した)中郷地頭烏丸紀伊介を追い出した。結果的に僧一人・俗人三人が射殺されたようである」とのこと。返事には、「いただいた情報は、御老中に披露した。今後もそちらの状況を調査し、適宜ご注進されるのが大事だ」と記した。
 この日、肝付使者(薬丸兼持、八月七日条)の宿舎に、伊地知勘解由(重秀)と同心して御礼に行った。老中伊集院右衛門大夫(忠棟)のところに行っており、留守だった。
十日、いつものとおり出仕した。入来院殿(重豊)の申し出(八月八日条)を、奏者三人(本田親貞・伊地知重秀・覚兼)一緒に(義久に)披露した。「一両日中に御談合衆が集まるので、老中が対応を相談するのがいいだろう」との上意であった。「ただ、所領をどれだけといって召し上げると、所領が欲しくて(野心の風聞を)言い出したように見える。十町を形だけ召し上げた上で、別の場所に十町繰替地を与えるのがいいだろう」との御意であった。神判(起請文)は、これまた文言を談議所(大乗院盛久)に起草を命じられた。ただ、「入来院との分別以」(入来院氏の対応を見てという意ヵ)臨機応変に対応するようにとのこと。また、入来院氏の年行共(家老ヵ)や、萩野采女という者など、両氏の間で馳せ回った連中も、それぞれ神判・血判を提出させるべきである、との仰せであった。
 昨日、平佐(地頭野村秀綱)から到来した書状を、今朝義久のお目にかけた。
 この日、鹿児と川辺の相論(八月八日条)について、今泉寺(南さつま市加世田川畑)の代理として、川辺の等持坊が参上した。伊地知勘解由左衛門尉殿(重秀)と参会し、意向を聞いた。左馬頭殿(鹿児領主島津忠長)の主張について、金田殿・折田殿から事情を聞いたところ、地頭の平田新左衛門尉殿(宗張)は全く知らないとのことで、興国寺門前まで来て(いざとなった寺入するということヵ)、このたびの事態について老中に取りなしを依頼した、とのことである。

(補足・解説)
 6日条の伊地知重興は、大隅国下大隅(垂水市)の国衆。永禄4年(1561)以来、同国高山の国衆肝付氏と連携して島津氏に抵抗してきたが、この年、とうとう島津氏に降伏した。降伏後、出家して謹慎していたのであろうが、義久の許しを得て還俗したということであろう。あわせて「周防守」に任じられているが、これは同氏の当主代々の受領名であり、国衆伊地知氏の存続を認めたことを意味する。
 8日や意味が取りづらい。7月に国衆入来院重豊(?~1583)に野心の風聞がのぼり、このため八朔での順位が問題になったようである。入来院氏から所領献上を申し出て手打ちとなったようであるが、10日条での義久の対応が面白い。所領が欲しくて野心の噂を立てたと思われるのはなんだから、10町献上させて、別に10町与えるとの意向。「外聞」をやたらと気にする義久の性格というか、島津家の家風が出ている。
 4日条でも話題に上った、東鄕重尚と島津薩州家義虎の所領相論は、9日条によると東郷氏による武力侵攻という事態に発展している。現在の薩摩川内市の中心部、川内川北岸は16世紀初頭から東郷氏の所領であり、薩州家との抗争が続いていた。元亀元年(1570)、東郷氏は入来院氏とともに島津氏に降伏して、この地域を返上し、薩州家義虎領となった。従属国衆どうしの武力紛争にたいし、島津本宗家がすぐには介入せず、情報収集を指示するのみなのが面白い。
 一方で、9日条によると、肝付氏と北郷氏の和睦仲介に義久が乗り出したことがうかがえる。肝付兼亮(1558~1634)は、伊地知氏ともにこの年、ようやく島津氏に降伏し、肝属郡を安堵されたとみられる。しかし、所領紛争は続いており、島津本宗家と対等に近い同盟関係にある御一家北郷時久は、肝付氏に所領を割譲を求め、いまだ和睦が成立していない。義久は、ともに肝付氏と戦ってきた盟友北郷氏に譲歩を求めると言っているが、果たしてどうなるのか?

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