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『上井覚兼日記』天正2年(1574)8月16日~20日 [上井覚兼日記]

1月末からクソ忙しかったので、久しぶりの更新です。

十六日、いつものとおり出仕した。入来院殿(重豊)の血判が届いた。入来院氏内衆五人の血判もあわせて届いた。これは皆役人(家老?)どもである。やがて、血判を(義久の)お目にかけた。入来院氏からの口上は「尾(?)から川内の方を皆返上する旨申し上げたところ、寄田はこれまでどおり下されるとのこと、そのほかも形だけで替地を下されるとのこと、感謝に堪えません。長くこの恩を忘れることはありません。また、山田・天辰に今現在在住の人衆については、清色に移すことは難しいです。こちらからうち捨てるのも忍びがたいので、人衆と合わせて召し上げていただきたい」とのこと。この旨、(義久に)御披露した。すると、(義久は)どう返書を記すか、また人衆をあわせて召し上げるか否か、この二条について老名敷衆(老中)に尋ねるようにとの意向だったので、そのまま老中に尋ねた。老中達が申すには、「返書については、以前入来院氏が神判(起請文)を出してきた時は返書をした。今回は入来院氏に二心があって再び提出されたのであり、こちらから心替わりがあったわけではないので、(返書は)無用である。また、人衆も合わせて召し上げてほしいとの件は、覚兼が返書を出すように」とのことであった。返答は「きっと皆さん年頃の人衆(入来院氏に長く仕えたという意味ヵ)であろうから、こちら(島津氏)の家臣にはならないでしょう。そちら(入来院氏)で引き取るのがいいでしょう、と述べるべし」とのことだったので、そのとおりに伝えた。また、「今後は、起請文に血判して誓ったように永久に二心を抱くことのないよう、書状で命じるべきではないか」との上意があり、老中衆も尤もだとの意向で、すぐに長谷場織部佑(純辰、右筆ヵ)に書状執筆を命じられた。
 この日、中書様(島津家久)から老中に対し、内々に要請があった。対応の使者は、新納武州(忠元)・拙者がつとめた。その内容とは、「(家久が)隈城(薩摩川内市隈之城町、地頭は比志島国真)西手名に四〇町ほど所領を格護している。その所領は「入乱」(錯綜しているということヵ)ているので、隈城とたびたび相論がおきていて困っている。そこで、このたび入来院氏が山田・天辰・田崎を返上したと聞いた。山田(薩摩川内市永利町)は三〇町の名である。しかし、以前「方分」の際、半分はこちら(家久)の所領となった。その残りは、当然三〇町まではないはずだが、三〇町ということで(入来院氏から)召し上げられた。天辰・田崎は、合わせて一二町であり、合計で四二町となる。これを、隈城に格護の所領と繰り替えて欲しい」、との要請であった。二言を言っているつもりはないとのこと。もうひとつ「入来院氏の今回の一ヶ条(野心ありとの噂)は、家久も通報者のひとりであった。つまり、この所領が欲しくて、こうした噂を流したと世間から見られると、困ったものである。これも御老中にご判断いただきたい」とのこと。御老中の返事には、「たいへんいいご提案かと思います。しかしながら、御前(義久)のご意向を存じませんので、こっそり内々に意向を聞いてみます」とのこと。「それもご判断にお任せします。」と中書(家久)は仰った。
十七日、いつものとおり出仕した。川上上州(久隅)の藺牟田地頭辞退の件。伊集院右衛門兵衛尉(久治)と拙者の二人で(義久に)披露した。「彼(川上久隅)は、真意と発言が異なる人なので、今後も(地頭を)お頼みしたいと伝えるのがいいだろう」との上意であった。川上氏がこのような役(地頭職)をつとめるのは前代未聞であるとの主張については、「十四・五年の地頭を勤仕しているのであり、今はじめて任じられた訳ではないだろう」とのご意見であった。
 この日の朝、川辺と島津忠長の相論について、左馬頭(忠長)殿が承諾しなかったことを、(義久に)披露した。直接本田下野守(親貞)を使者として、内々の協議結果を忠長に伝えるように、とのことであった。ついでに、平田宮内少輔の移動願い(八月十四日条)についての義久の意向が示された件につき、平田濃州(昌宗)から御老中に対し申し入れがあり、寄合中といっしょに拙者も承った。(平田昌宗としては)同名(同族)であり、とくに迷惑しており、驚いている。あれこれ申し上げるような立場に無いとのことであった(老中として諮問を受けることを辞退したいとの意味ヵ)。(義久の)御返事には、「濃州(平田昌宗)の心遣いはもっともである。しかし、このような案件は、親子・夫妻には相談するものである。まして、同名であるからといって、そこまで心遣いするのは無用である」と仰った。この旨、平田昌宗に伝えたところ、かたじけない上意であると仰って、寄合中に対し御礼を述べられた。
 この日、左馬頭(忠長)殿から伊地知勘解由(重秀)と拙者が呼ばれたので、二人で忠長の宿舎に参上した。承ったのは、「川辺との相論について、きちんとした対応がなされていない。とくに現在、各地から相論が持ち込まれ、お忙しいようなので、処理がすすまないのだろうから、お暇申し上げる(鹿児に帰る)」とのこと。すぐに、伊集院右衛門大夫(忠棟)・村田越前(経定)・平田濃州(昌宗)に伝えた。御前(義久)に披露するようにとのことだったので、殿中に参上して、小人(小姓ヵ)弥三郎殿を通じて申し上げた。明朝詳しく聞くとのお返事であった。
十八日、いつものとおり出仕した。中書様(家久)が内々に老中衆に申し入れた件(八月十六日条)、これを拙者一人で御前(義久)に披露した。義久の上意は、「西手名を繰り替える件は、まったく納得出来ない。なぜなら、隈城と相論がたびたびおきていると言っているが、なにか問題があるとは自分は聞いていないのに、相論があるという理由での繰替希望はいかがなものか。そして、山田を希望しているとのことだが、ここも一城ある場所なので、平地などとは違い、城を与えることはいかがなものか。特に、今でさえ金吾(歳久、義久弟・家久兄)が中書(家久)の分限(所領)をみて、いろいろと不満をいうことがある。いわんや、城(永利城)と所領を与えたならば、いよいよ不満が尽きることが無くなるではないか」とのことであった。御老中ももっともだと同意して、すぐにこれを中書様(家久)に伝えるようにとのことだったので、承った。
 入来院殿(重豊)へのご返書(八月十六日条)が、この日の朝出来上がったので渡すとともに、返事もおこない、入来院殿はお暇申し上げて、(入来院に)お帰りになった。
 中書(家久)の宿所に参ったが、お留守だったのでむなしく帰った。
 この日、平田新左衛門尉(宗張、川辺地頭)殿の宿所に、伊地知勘解由(重秀)と拙者が、御老中の使者として伺った。内容は「左馬頭(忠長、鹿児領主)との口事(相論)について、(忠長が)まったく納得せず、鹿児に帰ってしまったので、今回は決着しないだろう」と伝えた。彼は川辺に帰っていった。
 この日、執印河内守殿と座主・権執印の口事(相論)について(八月七日条)、まず河内守殿の言い分を聴取した。その主張は「三昧衆宮田杢助という者を、自分の養子として定めたいのであるが、座主・権執印が妨害している」とのこと。それから座主・権執印・総官大検校を拙宿に召し寄せて、言い分を聴取した。(聴取の)使者は伊集院源介(久信)・白浜防州・拙者であった。彼らの言い分は「執印河内守の養子となった者(宮田杢助)は、「殿守」(給仕の女官)の子である。三昧衆というのは、座主・権執印と同座に参るものなので、彼(宮田杢助)がそれほどの高職に就くことなどありえない」とのこと。我々は「彼(宮田杢助)の叔父にあたる人物は、正宮司ではないか。これはどうなんだ」と尋ねた。彼らは「その人物は、神道大阿闍梨であり、その上出家であるので、位(身分)の高下は無関係である」との回答であった。
十九日、いつものとおり出仕した。座主・権執印の相論につき聴取した意見を、御老中に伝えた。老中としては、「三昧衆という立場として、彼(宮田杢助)がふさわしくないというのか。しかし、養子になったのであれば、いかなる賤者(身分の低い者)であっても、養父の身分次第となるのであり、元の親(実の親)の身分や名字などは無関係である」とのこと。これは間違いないので、彼(宮田杢助)を三昧衆から外すことはできない。ただ、新田(宮)はよそに替わったので、神慮がこのようになったと主張するが(?)、道理はまったく通っていない」とのこと。
 この日の朝、川上殿(久隅)がふたたび(藺牟田地頭)辞退を申し出たので、(義久の)上聞に達した。上意では、「(川上)名字でこのような役は務めないとのことであろうか。これはそうであろう。しかし、上野守殿(久隅)は、真幸口(日向国真幸院、伊東氏との境目)で合戦ともなれば、おおいに頼りとする人です。人衆を是非召し連れていっていただきたいので、藺牟田地頭をもうしばらくお勤めいただきたい」とのことであった。
二十日、寄合中と一緒に御前(義久)に申し上げた。内容は「入来院重豊殿がこのたび所領を少々返上されました。天辰(薩摩川内市天辰町)については、以前川内を攻略した際、本田紀伊守(董親)に与えるようにとの仰せで、本田に宛行われるところでしたが、これは入来院氏に与えない訳にはいかないとの意見が出て、入来院氏に与えられました。紀州(本田董親)はその際、格好悪い状況になってしまったようです。幸運なことに今回所領が空いたので、本田に与えるのがいいのではないでしょうか」との上申。拙者が取り次いだ。(義久の)御意は「適切な上申である。よきように寄合中で談合の上、処理するように」とのこと。
 この日、吉利(忠澄)殿より申し出があった。「先月以来、野頸原で相論があり(八月二日・五日条)、(覚兼の)役人二人が召し放ちとなった。このたび(吉利殿が)鹿児島にお越しになり、御老中のもとを訪れ、二人を召し直すよう申し入れたので、早々に召し直すように」とのことであった。拙者は留守だったので、安楽弥平兵衛尉が承っておいた。吉利殿からの使者は、木原掃部助であった。
 この日の夜、談議所(大乗院盛久)に、(新田宮の)権執印・座主と執印殿との相論(八月七日・十八日条)について、ご意見(和解の仲介)をするように、白浜(重政)殿と拙者の二人が使者として申し入れた。明日、意見するとのこと。

(補足・解説)
 前回うっかり書き忘れましたが、桐野作人さんも御指摘のように、8月14日条に、当主島津義久の父貴久に対して、平田安房介が毒を盛ったとの下々の噂があったことが記されている。17日条では、その余波を受け、老中の平田昌宗が、同族という理由で老中辞職の意向を示して、慰留されている。同族と言ってもかなり離れた一族のようである。
 入来院重豊が返上した、川内川下流域の所領の分配をめぐって、いろんな駆け引きがあったようである。なかでも、中書家久(義久異母弟)の動きが面白い。相論解消を理由に、山田を拝領したいと申し出ながら、「所領が欲しくて入来院氏謀叛の通報をしたと見られるのは嫌だ」とは。後年の謀略好きの性格がこの頃からにじみ出ている。
 奏者という立場にあるため、相論に関する記述が多いなか、18日条の身分に関する判断が面白い。宮田杢助の三昧衆就任につき、実の親の身分が低いことを問題視する訴えに対し、養子になった以上、実の親の身分が卑しくても問題ないという認識が、「当然」とされている。厳格なる身分差も、養子になれば乗り越えられるということなのだろうか。
 それにしても、島津義久は一族や家臣の性格をよく把握している。家久の申し出には、理路整然と論破して却下しているし、川上久隅の地頭辞退の申し出については、「彼は真意と発言が異なる」と見切った上で、「伊東氏の戦いではもっとも頼りになるのはあなたですし、人衆(配下となる下級武士たち)が必要でしょう」とおだてて慰留している。こうした判断を、側近である覚兼が支えているのだろう。
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