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『上井覚兼日記』天正2年(1574)9月1日~10日条 [上井覚兼日記]

今回から9月に突入します。

一日、いつものとおり出仕。和泉(島津薩州家義虎のこと、鹿児島県出水市麓町の亀ヶ城を居城とする)から瀬崎之馬追をやって、あまり成果は良くなかったが、駒一疋を進上しますとのこと。また、(義虎の)奥さん(島津義久の長女「御平」)から「先日、ご丁寧に使者にてご挨拶いただきました。わざわざお礼申し上げるべきですが、まずはついでにお礼申し上げます。」とのこと。使者は、松岡民部左衛門尉という人であった。やがて(義久から義虎に)ご返事申し上げるには、「瀬崎駒をいただきました。ひときわ良い駒で、力の及ぶ限り大切にし、いつかこちらにご参上の際に、ご覧に入れます。」とのこと。奥さんへご返事申し上げるには、「先日、小者衆を派遣したところ、そのお礼をいただき、とても礼儀正しいことだと感服しました。どなた様もお元気とのこと、これも喜ばしいことです。」それから、使者がお暇申し上げたが、御老中から御用があるとのことで、この日は留まるよう伝えた。
二日、いつものとおり出仕。平田石見守殿が言上した。「子供の隼人佑が牛根に召し移されました。我々もそちらに移るべきでしょうが、隼人佑の立場もいまだしっかりしていないので、一月から二月ほど、今の「役所」に留まりたい」と、御老中に申請した。これを、伊集院右衛門大夫(忠棟)・平田美濃守(昌宗)・村田越前守(経定)の老中三人に伝えた。ご返事はなかった。
 この日、和泉(島津薩州家義虎)からの使者松岡民部左衛門尉殿の仮屋(宿所)に、御老中の使者として参った。昨日、(帰城を)とどめたことに他意は無い。ただ、現在世間ではいろいろと雑説(薩州家謀叛の噂)が飛び交っている。それについて義虎殿が、一貫して懸念していると、長文の手紙で(義久に)申し上げたところである。それについて、(義久は)「一ヶ条」(何らかの制裁、糾明?)老中から伝えるようにとの意向である。薩州家義虎の使者がそれを拝命するか、あるいは(この使者が分不相応と)ためらうのであれば、後日誰か、高城・水引あたりの衆中を二人ほど派遣させ、そのときに「一ヶ条」命じる」と、老中の仰せである。彼(松岡)も納得し、「後日必ず誰か参上させるでしょう」と言って帰っていった。拙者が使者をつとめた。
 この日、殿中での弓を、根占(重長)殿が企画した。それを、豊州(島津豊州家朝久)が見物したいと、我らに伝えてきたが、(義久様が)体調不良なので、遠慮するよう伝えた。
三日、いつものとおり出仕。兵庫頭(忠平)殿が昨日鹿児島に到着したとのこと。
四日、出仕しなかったところ、談合があるので来るようにと言われて、未刻(午後二時ごろ)殿中に参上。飯野口(宮崎県えびの市飯野、対三之山の伊東勢)攻略の談合であった。兵庫頭(忠平)殿、北郷一雲(時久)のご意見をしっかりと聴取しないわけにはいかないということになり、新納武州(忠元)・鎌田尾州(政年)・本田野州(親貞)・上原長州(尚近)を使者として派遣した。
五日、入来院(重豊)殿より、東郷宗左衛門尉という使者が来た。木練の柿(甘柿)があったからといって、籠十を進上された。(拙者が)取りなして、(義久が)使者をお目にかけた。御老中からの意見があり、どこの間(部屋)でお目にかかるべきかについて、年始・歳末・八朔の使者とは異なるので、朝ごとの出仕時に上覧なされる間でお目にかけるのがいいだろうとのことだったので、そのように対処した。すると、その後、白浜次郎九郎殿から、上意があり、「かの使者(東郷宗左衛門尉)は中間なのか、どうなのか?」とお尋ねがあった。先ほどのように子細を申し上げたところ、また上意があり、「それは老中が忘れていたのであろう。国衆からの使者は、だれでも対面所のなげしより上にてお目にかけるように」とのことであった。
 この日、また(飯野口)攻略の談合があった。我々も殿中に出仕し、談合に参加した。霧島の御鬮に従い、軍事行動を決定すると決まった。
六日、いつものように出仕。この日、(足利義昭からの)上使江月斎と(義久が)寄合をされた。早々に殿中にお出でになるようにとの使者は、拙者が派遣された。上使は、頴娃(久虎)の仮屋を宿所としていた。私は趣旨を伝えて、戻った。殿中の門までは、頴娃仮屋の閑月という者が案内者をつとめた。奏者は、伊地知勘解由左衛門尉(重秀)で、門まで出迎えた。はきものは、あまうちまで履いていた。それから、唐戸の(義久が)お座りの座から下の座にご案内し、平敷居の上手から上使はお入りになり、奏者は平敷居より下手から入った。それから対面所にて寄合があった。主居は、御屋形様、次に喜入摂州(季久)、次に平田濃州(昌宗)、客居は、上使、次に橘蔭軒(畠山頼国)であった。御膳は三つめまで出した。引き物(引き出物)がいろいろとでた。酒を三辺後、お湯が出た。肴はその都度ごとに出た。御前(義久)の給仕は、新納刑部大輔(忠堯)・本田紀伊守(董親)、客の前は、高崎兵部少輔(能賢)・梅北宮内左衛門尉(国兼)、いずれも手長(酒宴膳部を次の間に持って行く給仕・仲居)は無かった。そのほかの給仕衆は、伊地知勘解由・河上源三郎(久辰)・上原太郎五郎・伊集院源介(久信)・拙者であった。以上、これらの衆であった。「あるむきにて」(意味不明)点心が出た。肴・酒はもちろん、たびたび出された。客人の立つ処(?)は、素麺に据え替えて、肴を出した。その肴が下げられる前に、盃を奉ろうと、給仕が持って出たところで、(上使が)立ってしまった。貴殿様(義久)がなげしの下まで出て、ご挨拶された。酉刻(午後六時)から戌刻(午後八時)までで終了した。
七日、いつものように出仕。この日、田布施の立願の能があるということで、田布施に(義久が)急遽お越しになることになり、お供した。永吉の祭礼もあるので、お暇して(永吉に)向かい、直接、田布施に参ると伝えて、永吉に向かって。
八日、この晩、久多島に参詣。御幣を新たに作ったということで、頂戴した。
九日、「呼」(狩の一種ヵ)に登った。鹿一頭を手火矢で仕留めた。
十日、(記載無し)

(補足・解説)
 島津薩州家義虎からの使者が来ている。ついでに、義虎室=島津義久の長女「御平」からの手紙が届けられているが、これは義久の怒りを緩和するためだったようである。ただ、こんな手は義久には通用しない。雑説(謀叛の噂)がのぼり、「一ヶ条」求められている。『上井覚兼日記』で「一ヶ条」と出てくる場合、相手に対する処罰の意味合いが多い。この場合、雑説への弁明を求めているのだろうか?この雑説が流れる原因は、8月4日条あたりにみえる、薩州家と東郷氏の抗争あたりにあろう。
 後半は、義久の居城である「御内」での、儀式、しきたりについての記述が多い。覚兼が「奏者」をつとめるにあたり、備忘録として日記をつけていたことがうかがえる記述である。それとともに、「御内」内部の構造についても、うかがえる記述があり、興味深い。

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