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『上井覚兼日記』天正2年(1574)9月11日~30日条 [上井覚兼日記]

十一日、(記載なし)
十二日、(記載なし)
十三日、この日、田布施に向かい、途中で出迎えて、(義久の)お供をした。
十四日、金蔵院(金峰山、南さつま市金峰町)で(義久が)祈願。伊勢殿(島津薩州家忠陽)は、院主の次に座られた。
 この日、(義久が)能を奉納する予定であったが、雨が降ったので中止となった。
十五日、金蔵院にて能の奉納が成就した。
十六日、常珠寺で(義久が)祈願。
十七日、鮫島土佐守(宗豊)殿の子息が元服。そのついでに、衆中の子息や、また阿多・加世田からも多くが(義久に)面会に来た。
十八日、伊作の湯(現在の吹上温泉ヵ)に出かけられた。この日、酉時(午後六時)ごろお暇申し上げて、永吉に向かった。
十九日、(記載なし)
二十日、(記載なし)
二十一日、(記載なし)
二十二日、永吉有島の道を作り直した。
二十三日、鹿児島に帰った。
二十四日、いつものとおり出仕。新田宮執印殿から書状をいただいた。内容は、「先月から続く相論のこと(八月七日・十八日・二十日・二十四日・二十六日条)、ご祭礼が済んだので、急ぎ裁決してほしい。」とのこと。これを、白浜周防介殿・伊集院源介殿・拙者三人宛にいただいた。御老中に披露した。談合を開き、急ぎ裁決するつもりとのこと。とりあえず、返書は適当に出しておくように、とのことなので、内容に立ち入らないように拙者一人で書状で返事をした。
二十五日、月次(つきなみ)連歌の連衆(れんじゅ)として参加した。
二十六日、いつものとおり出仕。野村美作守(秀綱)殿(平佐地頭)からの書状の内容を、御老中に披露した。野添氏・寺田氏の移動希望について、また、先日大坊を使者として申し出た(八月二十六日条)、天辰名のことである。返書の内容を、(老中の)平田濃州(昌宗)・(伊集院)右衛門大夫(忠棟)殿にご覧に入れ、殿中で書いてすぐに送った。
 この日、和泉(島津薩州家義虎)から使者である島津伊勢守(薩州家忠陽、一五三八~八一、薩州家忠興弟興久の子、忠陽の子久守は西川氏を名のる)殿・指宿周防介・知識弾正忠の三人の仮屋(宿舎)に、寄合中からの使者として、本田若州(親豊)・伊地知勘解由(重秀)・拙者の三人が派遣された。内容は、「現在、世間で雑説(薩州家謀叛の噂)が立っているが、特に先月の初めごろ、喜入久屋斎(喜入氏一族、薩州家家臣ヵ)がこちらに来た。その際、聞いたところでは、「その雑説とは、中書様(家久)から出たものであり、急ぎ義虎が串木野(家久居城)に来て弁明するように。もし弁明が無いのならば、御身(義虎)は終わりになるぞ(誅伐あるいは改易を示唆したものヵ)」と言ったらしいと、喜入久屋斎が喜入摂州(季久、老中・喜入領主)に伝えたので、本田若州(親豊)を使者として、中書様(家久)に事実確認をした。すると、貴殿様(義久)が仰るように、中書は少しもその件は知らないと、直接和泉(薩州家)の使者に話したとのことである。(これに対し)勢州(薩州家忠陽)の返事は、「少しもこのような憶測は、山北(いちき串木野市の「薩摩山」より北の意。この場合、薩州家領を指す)では聞いたことが無い。義虎の言い分、また喜入久屋の言い分を聞いてくる」との返事であった。そのほかにも、高城(薩州家領、薩摩川内市の川内川下流域北岸)と東郷(国衆東郷重尚領)境の雑説(八月四日条)について、いろいろと我々三人に説明してくれた。
二十七日、いつものとおり出仕。昨日の和泉の使者からの返事を、(義久の)お耳に入れようと思っていたが、伊地知勘解由(重秀)・河上(忠克)殿が奏者として御前に参上した際、直接(義久から)お尋ねになったので、勘解由(重秀)一人で勢州(薩州家忠陽)の弁明とそれに対する老中の意向を詳しく申し上げたらしい。それから、また右の三人を和泉仮屋に派遣された。その内容は、「このたび、(喜入)久屋斎が申したことと、使者の考えが異なるのであろうか、勢州同心の人衆を山北に帰して、義虎の言い分を聞いてくるとの判断であろうか。もっともなことである。とにかく、そちらの考え通りでよい。次に、このようにたびたび雑説(謀叛の風聞)が生じており、何か義虎は企んでいるのか、あるいは(島津本宗家への)謀叛を起こすつもりでは無いかと噂されている。いまだこちらにはそうした情報は伝わっていないが、和泉の人衆がそうしたことを申しているのだろうか。あるいは、(薩州家の)家景中(家臣)が申しているのだろうか。誰、何という名字のものが、どのような目的で申しているか、はっきりと説明するように」とのこと。それに対する勢州(薩州家忠陽)の返事は、「昨日は、(喜入)久屋斎が申した〝一ヶ条〟についてだけでしたので、同心の衆を一人帰らせて、詳しく山北の言い分を聞いてくる旨申しました。再び(義久から)ご質問いただいたので、三人いっしょに(和泉に)いったん帰りたい」とのこと。この旨、平田濃州(昌宗)殿に伝えた。とにかく今日は逗留して、明日御屋形様にお目にかかってから退出するようにと、内衆にてお命じになった。
 この日、和泉の使者の宿所に、本田若州(親豊)・伊地知又八殿(重秀の子重元)・拙者で、酒を持参して挨拶に行った。そのとき、拙者に勢州(薩州家忠陽)が仰るには、「東郷と高城とで相論となっている、〝けしかり〟(花熟里、日置市吹上町華熟里)畠地のこと。以前、指宿周防介を使者としてこちらに説明した。そのとき、御使(使番)を伊地知勘解由(重秀)と拙者がつとめた。そのときの筋目があったので、(拙者に)言う。防州(指宿)が説明したとき。こちらからの返事には、『けしかりの事は、双方の意見を聴取するので、どちらの所領ともしない』とのことだった。にもかかわらず、東郷側が麻を植えてしまった。勢州からその件を尋問したところ、東郷からの返事は『全く鹿児島にうかがいを立ててこのようなことをしたのではない。下々のものが勝手に植えたのだ』とのことであった。そういうことならばと、高城側からその麻をことごとく刈り取った。このような行為は、それなりの立場のもの考えでやったことであり、下々が勝手にやったのならば、刈り取る際に妨害するか、刈り取って没収したなら、東郷側から押しかけてくるであろう。もしそうなったならば、義虎が外聞(評判)を失う事態になるでしょう。とにかく、急ぎ(花熟里の所有権を)どちらかに決定していただかなければなりません。」とのこと。そこで、この件を御老中に申し入れた。追って、東郷の言い分を聴取し、返事をするとのことであった。
二十八日、いつものとおり出仕。この日の朝、天草からの使僧来迎寺を、(義久が)お目に懸けた。天草(鎮尚)殿からの進上物は、太刀一腰・厚物二端・馬代三百疋。使僧の個人的進物は、中折三束・扇一本のようであった。
 この日、和泉使者の宿所に、伊地知勘解由(重秀)と拙者が使者として派遣された。上意の内容は、「現在、和泉と天草が義絶している。そうしたところ、天草からの使僧が、島津家に取りなしを求めてきたが、寄合中は(仲介することに)疑問を感じている。ただ、両者が合戦しているわけではなく、先代大岳様(島津本宗家九代当主忠国、一四〇三~七〇)以来、(天草は)当家とたびたび好を通じていたところ、そのご少々中絶していたが、今から先例通りに好を通じたいとの意向を、新納武州(忠元)まで長文にて伝えてきた。その上、老中にまで書状を送ってきたのである。この二通を勢州(薩州家忠陽)にも見せるように」とのことで、(二通の書状を)持たされた。そこで、拙者が読んで、和泉の使者に聞かせた。この書状を写したいとのことで、仮屋(宿舎)に置いておくのでお考え通りにと伝えた。次に、天草と和泉(薩州家)の和睦の件。義虎からは、どの場所でもかまわないので、少し所領を割譲してくれるのであれば、和睦(無事)してもよい、とのこと。(天草からの)使僧に新納武州(忠元)から尋ねたところでは、「所領割譲は出来ない」との回答であったが、極力義虎の意向を来迎寺に伝えるつもりであると、勢州(薩州家忠陽)に我々二人で伝えた。勢州の返事は、「ご丁寧な対応、かたじけない」とのことであった。
二十九日、いつものとおり出仕。伊地知式部大輔(重隆、?~一五七八)殿から同名源左衛門尉・浜田主馬允のふたりで、申し出があった。「高橋(南さつま市金峰町高橋)に〝一所地〟として拝領しております所領は、すばらしい所です。海辺なので、諸事下々のものまで住みよいところです。しかし、山がありませんので、殿中の材木や普請の材料が賦課された時、思うようになりません。ちょうど伝え聞くには、入来院氏が山田を返上されたといいます。そちらの田数は、高橋と同じくらいの場所ですので、召し替えて欲しい。国境であり、若輩である自分には似合わない場所ではありますが、(高橋には)あまりに山が無く、なにかと思うようにならないので。」と、老中まで申し出た。返事は、「いまのところ、(山田については、義久からの)決定・指示は無い。いそぎ談合をするつもりである。その時に、(所領替えの話が)出るかもしれない。もしかすると、あなたのためになることも出るかもしれない」との上意であった。次に、このたび右馬頭(島津以久、大隅清水領主、一五五〇~一六一〇)殿が鹿児島に参上されて談合することとなった。伊集院美作守(久宣)・宮原筑前守(景種)の二人も談合に加えるようにとの(義久の)上意があったので、伊集院右衛門大夫(忠棟)殿からふたりに伝えることとなった。そこで、御老中が書状を認めて、二人に遣わした。
 この日、春山(鹿児島市春山町)での〝呼〟(狩りのこと)にお供した。
三十日、春山でお狩り。その夜までお供して、帰った。

(補足・解説)
 薩摩国和泉領主である島津薩州家義虎の「雑説」(謀叛の風聞)がいよいよ大きくなってきました。薩州家側は、一族の島津伊勢守忠陽(義虎の大叔父興久の子)ら三人が使者として弁明に来た。話がややこしくなるのは、喜入久屋斎という人物の話が登場するためである。彼は、老中喜入季久の一族のようであるが、どうも和泉に在住しており、薩州家の家臣か本宗家からの目付として派遣された人物のようである。彼がもたらした情報によると、「今回の雑説の出所は、串木野の島津家久であり、家久が義虎を脅した」ということであったが、家久本人、そして義久もこれを否定している。
 家久が出所というのはどこまで本当か分からないが、8月4日に薩州家と東郷氏の紛争が生じていたにもかかわらず、本宗家は動いていない。こうした細かい事実を積み上げて、ここに来て一気に薩州家を追いつめるつもりだったのか、27日の義久からの詰問はかなり厳しい。証拠を積み上げて、攻め立てるのは義久得意の手法のようであり、これから十数年後に上井覚兼自身がやられている。
 29日条では、高橋の一所持である伊地知重隆が、入来院氏の旧領山田への繰替願いを出している。山田への繰替願いはこれで3人目。よっぽどいい土地なんだろう。
 なお、覚兼は自分の所領である永吉(日置市吹上町永吉)に滞在中、日記を書いていない。この時期の日記は、あくまで「奏者」としての勤務内容を記録することを目的としており、プライベートなことは書かない方針だったのだろう。プライベートなことも書くようになる、宮崎地頭時代の日記との大きな違いである。

※補記
 この現代語訳をしたあと、似鳥雄一「『通』考―『上井覚兼日記』の言葉を読み解く―」(『多元文化』5号、2015年)に、当該条の異なる解釈が載っていることに気付きました。論文そのものは、『上井覚兼日記』に見える「通」ということばに、現代で使用する「○○の通り」という意味以外に、覚兼自身や第三者の発言を引用した際、それを結ぶための記号として用いているケースなどを紹介したもので、大変勉強になりました。
まず、当該条の原文の一部を載せます。
此日、従和泉使者にて候伊勢守殿・指宿周防介・知識弾正忠、彼三人仮屋へ、御寄合中為使、本田若州(親豊)・伊地知勘解由・拙者三人被遣候、意趣者、当時世間雑説共申散候、殊ニ去月始之比、喜入久屋斎此方へ被罷越候、其砌承事ニ、彼雑説、中書様(島津家久)御前より被仰儀候間、急度義虎串来野へ御越候而、可被仰開候、若又不被仰開候ハ々、其時御身上可被相終之由候通、彼久屋斎喜入摂州(季久)へ被申候間、本若州以、中書様へ此由御事問共候、貴殿様より被仰候つる通、又ハ中書少も彼儀無御存知通、直ニ和泉之使者「へ」物語候

 前後の解釈は、本文をご覧下さい。また、元々の私の解釈は赤くしてあります。
 次に、青色の部分の似鳥氏の解釈は、次のとおりです。
先月初めごろに喜入久屋斎(不詳、義虎の家臣であろう)が鹿児島へやってきて、「例の雑説は中書様から仰せられたことなので、義虎は『串木野(家久の本拠)に出向いて申し開きをするつもりだ。さもなくば私は身の破滅だ』とのことだったと、喜入季久(老中)に言った。そこで本田親豊(奏者)が中書様にこのことを問い合わせた。貴殿様(義久)から仰せがあったのだ」とか、あるいは「中書は全くご存じなかった」とのことを、直接に出水の使者に伝えた。

 私の解釈との大きな違いはふたつ。
 ひとつは、「急度義虎串来野へ御越候而、可被仰開候、若又不被仰開候ハ々、其時御身上可被相終之由候通、」の部分を、私はすべて家久の発言と解釈したのに対し、似鳥氏は義虎の発言と解釈しています。似鳥氏の主張のように、「通」が発言引用の結びを示す記号なら、誰かの発言であることは確かです。だとすれば、その直後に「彼久屋斎喜入摂州(季久)へ被申候」とあるので、「其砌承事ニ」から「通」で結ばれる引用は、全部喜入久屋斎の発言でもいいような気がします。少なくとも、私の家久の発言との解釈は間違いのような気がしてきました。
 もうひとつは、「貴殿様より被仰候つる通」の部分を、私は従来通りの「通」の理解から、「貴殿様(義久)が仰るように」と解釈していましたが、似鳥氏はこの部分を家久の発言としています。これはその通りで、「義虎の雑説は、義久が仰った」ということでしょう。
 これをふまえ、私は次のような現代語訳を提唱したいと思います。ご参考まで。
「現在、世間で雑説(薩州家謀叛の噂)が立っている。特に先月の初めごろ、喜入久屋斎(喜入氏一族、薩州家家臣ヵ)がこちらに来た。その際、聞いたところでは、『その雑説とは、中書家久から出たものです。急ぎ義虎自身が串木野(家久居所)に行って弁明いたします。もし弁明しなかったならば、その時は義虎の身上は終わってしまうでしょう』と、喜入久屋斎が喜入摂州(季久、老中・喜入領主)に伝えたので、本田若州(親豊)を使者として、中書様(家久)に事実確認をした。すると、『貴殿様(義久)からそのようにうかがった』。また、『自分(中書)は少しもその件は知らない』と、直接和泉(薩州家)の使者に話したとのことである。」

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桐野作人

大変興味深く拝見しました。
薩州家義虎の謀反の雑説、私も新名さんと同じように解釈していたのですが、別の読み方があるのですね。大変勉強になりました。
by 桐野作人 (2019-01-04 09:28) 

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