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『上井覚兼日記』天正2年(1574)10月11日~17日条 [上井覚兼日記]

十一日、この日、法華千部会が成就した。この日の朝、真幸(島津忠平)への返事をした。内容は、「鎌田尾州(政年)・光明坊が申していること(上洛希望)、いろいろと細かな事情があるようで、(義久としては)言うべきことはない。しかし、新納刑部大輔(忠堯)・宮原筑前守(景種)が、今日(大口から)帰ってくるので、鎌田・光明坊の考えを聞いた上で、追って返事する」というもので、(忠平からの)書状に対する返書も、これも同様に追って返札をする、とのことであった。
 この日、意釣(川上忠克)のところで、夢想連歌があり、その連衆として参加。
 この日の朝、二階堂三郎次郎殿に対し御老中からの伝言を伝えた。「あなたの役所(所管区域ヵ)のこと。税所越前殿に尋ねたところ次のように申した。『間違いなく土橋殿の役所には、空き地がある。二・三人(移動を)望んでいるものがおり、その中でも二階堂殿を先に移動させることになり、去五日、面談した上で、(税所)越前が八日に鹿児島に来て、土橋殿と一緒に御老中に申請しようということになったのに、二階堂殿が六日に(御内に)参上したさい、御老中に直接申請したようであり、七日に越前が聞いたところでは、彼役所(土橋殿所管の空き地)を(二階堂殿に)下し、知行させることになったとのこと。(義久から)給与されたのはいいのだが、最初に約束したことを違え、地頭による申請を差し措いて、直接老中に申請したことは納得出来ない』とのこと。(そうした経緯で)彼役所を二階堂殿に与えるのは、税所越前が納得出来ないと、何度も訴えてきている。」と伝えた。(二階堂殿は)「間違いなくそのとおりです。しかしながら、たびたび地頭(税所越前ヵ)に訴えたにもかかわらず、埒が明きませんでした。ちょうど法華千部会の給仕のため偶然参上したので、なんとなく申請したのです」とのこと。
十二日、いつものとおり出仕。この日の朝、高江(薩摩川内市高江町)の大泉坊の弟子に、中納言公がお会いになり、銭百疋を進上した。あわせて、大岳坊もお会いになり、中紙三束を進上した。この日の朝、入来からの返状(十月九日に書いた書状への返書ヵ)を御老中のお目にかけた。
 この日、(義久の)狩りの準備のため、お暇申し上げて、永吉(日置市吹上町永吉)に向かった。それから(永吉に)留まった。
 この日、村尾兵部少輔(入来院氏家臣)を拙宿に呼び寄せ、山田((薩摩川内市永利町、島津氏に返上した入来院氏旧領)の田数書付について糾明した。「四十三町七反は浮免(年貢・公事などの免除地)で、寺社家領が十町ほどある。〝爾爾ならざるもの〟は知らない」とのこと。畠地はそれぞれが少しずつ知行しているが、どれだけかは分からないと答えた。門は十あり、屋敷は九あるとのこと。
 この日、野村美作守(秀綱、平佐地頭)殿・鎌田外記(政心、百次地頭)殿に、(義久の)御用があるとのことで、(御内に)召集されたので、(川内方面の取次である自分も)祗候した。それから平田(昌宗)殿のところで談合。山田新介(有信、高江地頭)殿も参上された。拙者は、伊作での御狩りのため明日出発するので、伊作地頭の考えについては、白浜防州(重政)が聴取するということに決まった。
 この日、二階堂(三郎次郎)殿が、役所についての地頭との交渉について、拙者に語ってくれた。彼の言い分によると、御老中に直接申請する旨、税所越前守殿には届けていたとのこと。
十三日、伊作での御狩りのため、早朝永吉に向かった。
十四日、(義久の)御狩りがあった。三窪(詳細不明)に参上し、その夜はそこに泊まった。
十五日、この日の朝、永吉に帰った。
十六日、また御狩りがあったので、早朝に三窪に参上した。そのまま(義久の)お供をして、鹿児島に帰った。猪・鹿を二日間の狩りで二十九、〝まろひ候〟(獲物の脚をくくって運びやすくした状態を「丸」という)。
十七日、いつものとおり出仕。川内各地の地頭、鎌田外記(政心、百次地頭)・野村美作(秀綱、平佐地頭)・山田新介(有信、高江地頭)・隈之城地頭比志島笑翁斎(国真、一五二五~八二)の代理として松本雅楽助がやってきた。彼らに対し、新田宮の公事(八月七・十八・二十・二十四・二十六・九月二十四日、執印河内守が三昧衆宮田杢助を養子に迎えることに対し、権執印氏らが反対)について意見を聴取した。彼らが言うには、「とにかく我々から言うべきことは無い。ただ、せっかく集まったので考えるには、(反対している)権執印一人だけ呼び寄せて、談議所(大乗院盛久)に依頼して島津氏への忠誠を誓う〝真判〟(起請文)を出させたうえで強く説得した上で、彼人(執印河内守)を呼び寄せ、養子の件を認めてやれば、ほかの(反対している)者たちも、納得するのではないか」とのこと。それから、この考えを白浜周防介と拙者の二人で、義久に報告した。義久のお考えは、「この件を解決するために地頭を呼び寄せたのだから、彼らの考えでいいだろう」とのこと。ついでに仰るには、「この解決案をとりたてて(義久の)上意としなくても、老中の判断でいいだろう」とのこと。ただ、以前この相論当事者に寄合中から判断を伝えたけれども納得しなかったことについては、「この相論を自分(義久)の耳に入れれば、どうにか判断するだろう。そうすれば、どちらかに不利な判断だったとしても、そのまま結果を伝えればよい。これにより、両者が決裂するようなことになっても、寄合中の責任ではなく、自分(御前)の判断だと考えているのだろう。これは納得出来ない」とのことであった。それから、権執印氏に対し、松本雅楽助(隈之城地頭の代理)を派遣した。内容は、「(奏者の)白浜周防介(重政)・拙者両人から命じる。御老中が(お前に)所用があるので、急ぎ参上するように。その際、今回の相論について、執印殿と千儀房は同心(納得)しているので、座主・権執印と同意見のものは誰がいるのか、書き上げて持参するように」と伝えた。
 この日、山田新介(有信)殿(高江地頭)が御老中に言上した。内容は「高江にいる有馬名字の人と瀬戸口名字の人が、どこかへ移りたいとのことで、お願いしたい。また、従兄弟にあたる山田弥七郎が、去る六月に(義久の)お目にかかりました。それ以前に瘡(かさ)わずらいをした時、叔母が山伏にすると立願したにもかかわらず、それを油断して俗体でお目にかかり、今又ひどい病となりました。英彦山から山伏に成らなかったことへの祟りであると申しております。繰り返しの申請ではありますが、今から山伏にしたいと思うのですが、いかがでしょう。次に、川辺にいる有田氏が、高江に召し移すことに決定しましたが、川辺と所領を掛け持ちではいろいろやりづらいので、高江に加世田の順阿弥が掛け持ちしている門と町三反があります。これを加世田は河辺近くなので、召し替えるのがいいのではないでしょうか。」とのこと。御老中からの返事は、「二人の移動希望の件は、どちらも今回は川内人衆の召移しはしないことになっている。次に、弥七郎殿のことは、本当に繰り返しの申請ではあるが、ついでの時に(義久の)ご意見を聞いて返事する。次に有田氏掛け持ちのことは、今後あなたの申請のようになるようするつもりである。追って返事する」とのことであった。
 同日、鎌田外記(政心)殿(百次地頭)が言上した。「この前、百次地頭職を命じられた際、鹿児島から鎌田勘解由を召し移されました。所領が少なかったので、先に地頭分として与えられていた蒲牟田(宮崎県高原町?)一町を彼に与えようと思い、確保していたところ、思っても無い事態が生じ、勘解由は成敗(殺害)されてしまいました。そして、その所領は別人に下されました。ちょうど今、所領の配当(くりまわし)が行われておりますので、蒲牟田の所領を自分にくだしていただきたい」とのこと。御老中の返事は、「どうあっても必ず配当されるであろう。その時に返事する」とのこと。
 この日、野村美作(秀綱)殿(平佐地頭)から申請があった。「この前、平佐地頭職を命じられ、いままで務めてきたが、これからは務めるのは難しいと考えます。とにかくお願いしますので、解任してほしい。この旨、御老中にお願いして欲しい。もし辞任が認められたら、鹿児島に召し移されるのが子供のためにもなり、それがだめなら、所領が少々ありますので、加世田にでも移して欲しい。また、薩摩山(いちき串木野市)よりこちら側(南側)でさえあれば、どこへでも召し移して欲しい」と、野村民部少輔(是綱)を使者として御老中に内々に伝え、明朝きちんと申請したいので、拙者に取次をお願いしたいとのこと。「明朝、どなたか二人で申請を受け付けます」と拙者は答えた。
 この日、奈良原狩野介(延)殿から申請があった。新城(鹿屋市)に移られて、拙者にお願いしたいことがあるとのこと。「新城に〝ふなま〟という三反の塩屋がある。これを与えていただきたい。それがないのでしたら、小島というこれも三反の場所があります。これを与えていただきたいと、細かく白浜防州にお願いしましたが、これまで不首尾だったので、このようにお願い致します」とのこと。
 この日の晩、泰平寺(宥印、薩摩川内市大小路町)がいらっしゃった。「薬師寺再興について、二・三年前に判形をいただいたが、合戦のの最中だったので、勧進ができなかったので、今から勧進をはじめたい」とのこと。そこで、本願主(発起人)の聖を御老中のお目にかけたいとのこと。その聖は、生まれは河内で、高野山に居住しており、六十六部(法華経を六十六回書写して、一部ずつを六十六か所の霊場に納めて歩いた巡礼者)のため泰平寺に来たところに依頼したとのことで、拙宿にも連れてきたとのこと。良賢坊という聖であった。

(補足・解説)
 地味だが、興味深い事例が散見される。
 11日条の「役所」という言葉。3日条の伊地知重昌からの訴えにも登場するが、どうも特定の建物や役宅を意味するのではなさそうであり、一定の領域を示すとみられる。地頭(外城)が所管する地域を指す言葉のように思える。
 17日条。8月7日以来続いていた、新田八幡宮執印氏が養子を迎える件で、権執印氏らが反対した相論。調停が困難になった状況で、老中は「川内」の地頭衆を召集し意見を聴取している。この時奏者であった上井覚兼(為兼)は、川内担当取次だったとみられ、地頭衆を召集し意見聴取にあたっている。ちなみに、「川内」というと、現在の感覚でいうと平成の大合併前の「川内市」をイメージする人が多いと思うが、この時点の「川内」とは、川内川下流域周辺地域くらいの意味では無いだろうか。地頭衆の意見は、反対派の中心である権執印氏から島津氏に対する起請文を提出させた上で、執印氏の養子縁組を認めさせるというもので、老中はそれをそのまま義久に仰いで決裁を得ようとした。それに対する義久の対応が、義久らしいというか、戦国島津氏の意思決定過程を表しており興味深い。
 義久は、最終決断は老中として下すべきであり、それを自分に丸投げするのは老中の責任逃れだと批判している。義久は、こうした裁決は、老中が意思決定すべきであり、自分はそれを追認するのみと考えているようである。こうすれば、責任は老中にあることになり、自分には及ばない。大日本帝国憲法下の天皇とこれを補弼する内閣の関係に似ているような気もする。このなんとなく責任の所在を曖昧にする意思決定過程は、当主の独裁を防ぎ、家臣団の合意を形成するにはいい制度なのかもしれないが、迅速な意思決定という意味ではあまりいいシステムでは無い。これが、政治的・軍事的意思決定の遅さにつながるのだろう。



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