大淀地区の気になるポイント [宮崎の史跡]
きよたけ歴史館の企画展「宮崎の関ヶ原合戦 清武城主稲津掃部助の戦い」を見た帰り、宮崎市の大淀川右岸、大淀地区の気になるポイントを見て回る。
まずは昨年開通した、宮崎市大坪町と清武町加納を結ぶ国道269号線バイパス(通称加納バイパス)途中にみえる古石塔。場所はここ↓
宮崎市大字恒久字諏訪だと思う。
バイパスのすぐ西隣に鎮守の森のような光景。
こちらが右側の神社。字名は諏訪だが、なぜか「正八幡宮」。
こちらが神社のすぐ隣の古石塔群。左右にそびえる六地蔵塔が目立つ。
下部には四方に種子(梵字)が刻まれている。
よく見ると、「永正十八年辛巳三月廿一日」と紀年銘が確認できる。西暦1521年。宮崎平野全域が都於郡城主伊東尹祐の支配下に入っており、尹祐はこの前後には都城盆地に度々侵攻している。
六地蔵塔の背後には、板碑や無縫塔が整然と並ぶ。右手前の無縫塔は銘からみて幕末の僧侶の墓。寺跡とみて間違いないだろう。これ以外のものもほとんど近世の年号のようだ。
その背後には、大量の石塔類の残骸がうずたかく積まれている。おそらく、神社前のバイパス工事中に出土したものだろう。
こちらは、石塔群から振り返った風景。バイパス背後に見える建物群は野崎病院。中世の山城である曽井城跡にたつ。室町から近世初頭にかけてたびたび史料に現れる城で、大淀川河口域南岸の要衝である。
さてこちらは、さきほどの古石塔群から北西約1kmの距離にある花山手団地の標識。場所はここ↓
ここ10年ほどで整備された新興住宅地なのだが、「合戦坂」に「能登坂」と、ずいぶんと歴史を感じさせる通り名である。
「合戦」とは、天文2年(1533)9月の日柱合戦のことで、「能登」とは、この合戦で討ち死にした「長倉能登守」のことである。長倉能登守は伊東家家臣で、前出の伊東尹祐没後の家督相続をめぐる紛争に巻き込まれ、伊東氏に反旗を翻してこの地で合戦に及び、討ち取られたのである。おそらくこのあたりの新しい住民達は、この標識の意味も分からず家を買ってしまったのだろう
この団地を造成する際、長倉能登守の墓とされる板碑が発見された。墓の下からは比較的新しい時代の馬の骨が出土したらしく、発掘担当者は原因不明の発熱で苦しんだという。住宅地ということでこの板碑は現地保存されず、現在は蓮ヶ池史跡公園内の石塔のはらっぱで保存されている。写真はこれ↓
発見時にはすでに二つにおれており、断面近くに「天文」の紀年銘が確認できる。墓台は、明治になって新興宗教団体がつくったもの。
この石塔の詳細を知りたい方は、甲斐亮典「『長倉能登守』の供養碑」(『森の風』5、1998年)をお読みになるか、みやざき歴史文化館にお問い合わせ下さい。
まずは昨年開通した、宮崎市大坪町と清武町加納を結ぶ国道269号線バイパス(通称加納バイパス)途中にみえる古石塔。場所はここ↓
宮崎市大字恒久字諏訪だと思う。
バイパスのすぐ西隣に鎮守の森のような光景。
こちらが右側の神社。字名は諏訪だが、なぜか「正八幡宮」。
こちらが神社のすぐ隣の古石塔群。左右にそびえる六地蔵塔が目立つ。
下部には四方に種子(梵字)が刻まれている。
よく見ると、「永正十八年辛巳三月廿一日」と紀年銘が確認できる。西暦1521年。宮崎平野全域が都於郡城主伊東尹祐の支配下に入っており、尹祐はこの前後には都城盆地に度々侵攻している。
六地蔵塔の背後には、板碑や無縫塔が整然と並ぶ。右手前の無縫塔は銘からみて幕末の僧侶の墓。寺跡とみて間違いないだろう。これ以外のものもほとんど近世の年号のようだ。
その背後には、大量の石塔類の残骸がうずたかく積まれている。おそらく、神社前のバイパス工事中に出土したものだろう。
こちらは、石塔群から振り返った風景。バイパス背後に見える建物群は野崎病院。中世の山城である曽井城跡にたつ。室町から近世初頭にかけてたびたび史料に現れる城で、大淀川河口域南岸の要衝である。
さてこちらは、さきほどの古石塔群から北西約1kmの距離にある花山手団地の標識。場所はここ↓
ここ10年ほどで整備された新興住宅地なのだが、「合戦坂」に「能登坂」と、ずいぶんと歴史を感じさせる通り名である。
「合戦」とは、天文2年(1533)9月の日柱合戦のことで、「能登」とは、この合戦で討ち死にした「長倉能登守」のことである。長倉能登守は伊東家家臣で、前出の伊東尹祐没後の家督相続をめぐる紛争に巻き込まれ、伊東氏に反旗を翻してこの地で合戦に及び、討ち取られたのである。おそらくこのあたりの新しい住民達は、この標識の意味も分からず家を買ってしまったのだろう
この団地を造成する際、長倉能登守の墓とされる板碑が発見された。墓の下からは比較的新しい時代の馬の骨が出土したらしく、発掘担当者は原因不明の発熱で苦しんだという。住宅地ということでこの板碑は現地保存されず、現在は蓮ヶ池史跡公園内の石塔のはらっぱで保存されている。写真はこれ↓
発見時にはすでに二つにおれており、断面近くに「天文」の紀年銘が確認できる。墓台は、明治になって新興宗教団体がつくったもの。
この石塔の詳細を知りたい方は、甲斐亮典「『長倉能登守』の供養碑」(『森の風』5、1998年)をお読みになるか、みやざき歴史文化館にお問い合わせ下さい。
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