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祝!上井覚兼誕生日 [上井覚兼日記]

 本日、2月11日は、新暦ながら上井覚兼の誕生日です。
『上井覚兼日記』番外編として、その生い立ちについて書いておきましょう。

 覚兼は、天文14年(1545)2月11日、大隅国上井にて、父上井薫兼・母肝付兼固の娘の長男として誕生しました。

 こちらが、父上井薫兼の居城「上井城」です。上野原遺跡ちかくの展望台から撮ったものです。
上井城.jpg

 場所はこのあたり、鹿児島県霧島市国分上井になります。現在、南公園ということになってますが、整備不十分で眺望はよくありません。


 覚兼の頃は、現在の天降川が国分中心部を流れており、上井城のすぐ西側から錦江湾に流れ込んでいました。つまり、上井は大隅国衙の外港的位置にあったようです。覚兼は天文22年(1553)、父薫兼が薩摩国永吉地頭として移封される9歳まで、この地で育ちました。『日記』では、たびたび覚兼が地引き網など漁猟に興味を示しますが、それはこの地における幼少体験によるものかもしれません。

 父薫兼の移封にともない、覚兼が移り住んだのが、薩摩国永吉、現在の日置市吹上町永吉です。
場所はこの辺り↓

 現在の永吉小学校の裏山が、永吉城のようです。

 この永吉城の南側、愛宕山と呼ばれる山の麓にあったのが、文解山という禅宗寺院で、覚兼は天文23年(1554)から元服する永禄2年(1559)頃まで、ここで学問を学んだようです。
現在、その故地には、次のような看板が立っています。
文解山1.jpg

 愛宕山頂上からは、西に吹上浜・東シナ海、北に永吉城とその麓が一望できます。
文解山2.jpg
文解山3.jpg

 永禄2年(1559)頃に元服して「為兼」となのった覚兼は、島津貴久に出仕し、その後家督を継承。天正8年(1580)8月、宮崎地頭に任じられて移封されるまで、この永吉の地頭をつとめました。

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