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『上井覚兼日記』天正2年(1574)10月1日~10日条 [上井覚兼日記]

天正二年(一五七四)十月

一日、この日の朝、いつものとおり出仕。
二日、殿中にて法華千部会をはじめた。談議所にて、法印(大乗院盛久)ら聖家衆百十人で始めた。貴殿様(義久)が一巻から二巻の半分まで聴聞された。出仕はそれぞれいつものとおり。
 この日、御納所衆に使をした。内容は、「日新様の七年忌が来月になる(命日=永禄十一年(一五六八)十二月十三日)。それについて談合するように」とのこと。それから、本田若狭守(親豊)・伊地知越後守・平野丹後守(友治)・加世田衆鮫島二郎左衛門尉・土持若狭守・指宿加賀守、これらの衆が打ち合わせ、万事談合をおこなった。
 この日、平佐石神坊から申し出があった。冠嶽(和光院頼重)との公事(相論)のこと(八月十二日条)。「今月は〝長日前〟(?)なので、こちらで決着すると先月うかがったので、こちらにやってきた。しかし、どうしたことであろうか、(和光院頼重は)こちらに参上しておらず、千部会にも参加していない。覚兼の書状で和光院を説得して欲しい」と、肥後山城守殿と共にうかがった。我等は、まずは御坊は(平佐に)帰っていただき、使者を派遣して冠嶽がいつ(鹿児島に)参上するのか、内々に談合するのがいいだろうと伝え、(石神坊を)帰した。
三日、出仕しなかった。拙宿にて、入江権允が来て、鞁(鼓ヵ)の稽古。この日、伊地知縫殿助(重昌、一五四〇~一六一八)から、中馬氏・梶原氏を使者として、御老中宛に申し入れがあった。「ご存じのとおり、下大隅五ヶ所(垂水・田上・高城・新城・下之城)を返上したところ、下之城(垂水本城ヵ、垂水市本城)のみ拝領し、安堵していただきました。ありがたく思っております。すると、諸所に残してきた忰者どもが下之城に移りたいと申してきました。これに対し(重真=重昌ヵは)『どこであっても、扶持を得て移るように。下之城に集まっても召し抱えることは出来ない』と返事しました。このうように、方々に残っているものが多くおります。しかし、人衆が多く下之城を頼ってきてしまう状況は放置できません。現在、高城の所領は、新城に附属していますので、もし、高城に人衆が移されていないようでしたら、(高城の)下栫に役所がございます。これをお下しいただき、その下々のものを召し置きたいのです」とのこと。詳しく聞いておいた。
四日、いつものとおり出仕。昨日、伊地知殿からうかがった件を細かく御老中に申し上げた。しばらく重真(重昌ヵ)は逗留するようなので、追って返事するとのことであった。
 この日、平田新左衛門(宗張)殿に、川辺から祁答院への移衆日記(名簿)を渡した。早々に命じるようにと伝えたところ、畏まりましたとのことであった。
五日、いつものとおり出仕。入来院より使僧がきて申し入れがあった。内容は、「一昨日、肝付から出家二人が突然やってきた。驚いて問い質したところ、その出家が申すことには、『先月の初めごろ、肝付から意叶という医師が加治木を訪れ、帖佐米山(姶良市鍋倉の米山薬師ヵ)に参詣したついでに、総禅寺(姶良市鍋倉)に立ち寄った。総禅寺住持をたずね、入来院にいる宗符という医者は、本来肝付の人であらしいが、ご存じでは無いですかと(意叶は)尋ねた。その時、意叶は、その宗符の子に、出家一人・俗人一人がいる。今は、肝付に住んでいるとのこと。ある時、総禅寺住持が、おそらく(宗符の)子孫に次のように伝言した。宗符はたびたび総禅寺にも参詣しており、ある時道具箱二つを作って預けてあり、死去する直前に入来院に取り寄せた。もしや総禅寺に〝一節(?)〟作ってあるのではないかと尋ねたが、尋ねるのであれば入来で尋ねるようにと、(総禅寺住持は意叶に)答えたとのこと。この時期、また意叶が加治木に行くというので、我々二人も同心して、総禅寺に参詣しました。親の〝向後〟(その後?)を知りたく、入来までやって来た』とのこと。御老中全員にこの件を披露した。御返事は護摩所にておっしゃった。「肝付から出家二人が突然入来にやってきたのであろうか。その理由は確かに聞いて、詳しく理解した。今は(肝付氏と)和平(和睦)が成立している以上、肝付の者をそちらに出入りさせててはならないとも、出入りさせてもよいとも、寄合中からはあれこれ言うことは出来ない。入来院(重豊)殿の判断次第です。」との返事であった。入来からの使僧は、慈光寺(薩摩川内市入来町浦之名にあった曹洞宗寺院)の同宿である等順という僧であった
 この日、菱刈の本城からの使者二人に対し(上意が)伝えられた。上原尚近と拙者が使番であった。護摩所で申し渡した。内容は、「菱刈(重広)殿は、たびたび当家に対し敵対してきた。先代の貴久様の時、蒲生範清が敵対した際、(貴久が)出陣したところ、菱刈はどういう判断か、向陣(蒲生氏救援のための後詰)を取った。もちろん、天道(道理)は疑いなく(島津氏にあり)、菱刈陣を攻め崩し、菱刈氏の重臣数輩を討ち取ったので、蒲生はすぐに落城した(弘治三年(一五五七)四月)。その後、貴久様が大隅宮内(霧島市隼人町)に出陣した際、菱刈天岩斎(重州)が自ら参上して先非を改め奉公したいと申したので、これを許した。その後、(日向国真幸院=宮崎県えびの市・小林市の)北原家のものどもが、あるいは主人を討ち殺し、あるいは傍輩を妨げ、いろいろと家中に乱劇(混乱)が生じたので、北原掃部助兼親を北原家当主に召し立てようと考えたところ、北原伊勢守(兼正ヵ)が横川城(霧島市横川町中之)に籠もって(反旗を翻した)。これも恐らく、菱刈氏と談合していたのであろう。その時、(北原家の)家中のものたちが申すには、北原氏の当主を立てるには、まず横川城が問題となる。なぜなら、真幸ヘの通り道に(横川が)あるからである。それから、島津貴久自ら甲を着けてたやすく横川城を攻略した(永禄五年(一五六二)六月)。その後、いろいろと菱刈氏が島津氏に誠意を示したので、特に横川を与えた。しかし、(島津氏が)三之山を攻めた際(永禄九年(一五六六))、菱刈氏は伊東氏に足軽を密かに派遣した。また、上村というところで、兵庫頭(忠平)殿が通過する際、少々軍勢を隠して命を狙ったが、(忠平が)御内衆数百人を連れて通ったので、失敗に終わったが、矢を一本射かけたのは間違いない事実である。このような状況だと真幸の支配は難しいと、家中の人々が進言し、馬越を攻略したのである(永禄十年(一五六七)十一月)。その時、貴久は菱刈氏を本城(伊佐市菱刈南浦の太良城)に残そうとの上意であったが、それをどのように考えたのか、祁答院氏を頼って落ち延び、求摩(相良義陽)と結託して、島津氏に敵対した。求摩は大口(伊佐市大口)を堅持していたが、これも天道無二のため(道理が島津氏にあったので)、島津氏の勝利に帰した(永禄十二年(一五六九)九月)。このように、たびたび菱刈氏はたびたび島津氏に敵対してきたので、家を断絶すべきであるが、「国衆を亡ぼすのはいかがなものか」との(貴久の)一言で、現当主の孫三郎(重広)殿が祁答院にいたのを探し出して、今のように本城(伊佐市菱刈南浦)に残したのである。しかし、今また謀叛を起こそうとしていると世間が噂している。本当かどうかは知らないが、世間がそのように噂をするということは、決して菱刈家のためにならないので、どこか似合いの場所に繰替すべきであろう」とのこと。両使が申すには、「仰せの条々はごもっともですので、(本城に)帰り、菱刈重広に一々お伝え致します」とのことであった。
六日、いつものとおり出仕。この日の朝、もとの高祟寺(肝付町)住持だった典瑜が一乗院住持となり、入院の祝いの酒を進上した。我々が〝御手長〟(給仕役)をつとめた。
七日、いつものとおり出仕。新田宮執印と座主・権執印の相論について(八月七日・十八日・二十日・二十四日・二十六日・九月二十四日条)。先月のやり取り(懸引)を細かく白浜防州(重政)と拙者二人で(義久に)ご説明した。(義久の)上意は、「非理を判断し寄合中が意見したのあれば、それ以上自分からとやかく言うことはない。しかし、川内各地の地頭二・三人を召し寄せ、意見を聴取するのがいいだろう。また、正八幡宮の社家衆にもこのようなケースはどうしているのか尋ねるのがいいだろう。それでもはっきりしないようであれば、鬮を引くのがいいだろう」とのことであった。この旨を御老中に伝え、早速川内各地の地頭を召し寄せると決定した。
 この日の朝、伊地知方(重昌、下大隅下之城領主)から去三日にうけた請願を義久のお耳に入れた。御返事は「下大隅のことはよく分からない。そちらについてよく知っている人衆に尋ねた上で談合するのいいだろう」とのこと。ついでに御老中に対してもお命じになった。「伊地知氏のこと。このたびきちんと奉公するつもりがない事が明白となった。いろいろと請願している件、十のうち七・八割りまでは、たとえ理にかなっていたとしても、聞き入れるつもりはない。ましてや、理にかなっていない請願ならば当然却下する。なぜなら、(伊地知氏の)親類が島津家の家臣として代々仕えている。このような申し出を受け入れると、不心得者の申し出も簡単に通ってしまうと諸人が誤解してしまうと、必ず島津家のためにならないと、よくよく申し聞かせるように」とのことであった。そこで、老中の喜入摂津(季久)・伊集院右衛門大夫(忠棟)・川上意釣(忠克)・平田美濃(昌宗)・村田越前(経定)に伝えた。
 この日の晩、伊地知(重昌)殿に返事をした。(伊地知の使者である)中馬氏・梶原氏の二人を拙宿に呼び寄せ、高城麓の役所について、寄合中はその辺りの状況を知らないので、よく談合した上で、追って詳しく返事すると、伝えた。
 同じくこの日の晩、入来院氏からの使僧が伝えるには、「一昨日、使僧で伝えた肝付からやってきた出家とその伴侶は、ともに死罪とした。理由は、(肝付氏と島津氏の)和平が成立したとしても、肝付と入来の出入りは禁止するのが〝当概〟(妥当?)である。その基本方針に基づき、出家と伴侶と召し連れていた下人二人を死罪とした。」とのこと。拙者の返事は、「先の使者から詳しく聞きました。今は和平が成立したので、肝付からそちらへの往来は問題ないのですが、そちらからお尋ねがありました。寄合中としても全く関知せず、入来院殿次第であるので、善悪の判断はしないと、お伝えしたにもかかわらず、死罪にしたとのこと、驚いております。まずはお帰り下さい。ついでの時に御老中に話しておきます。」と答えて、帰した。
八日、今朝、昨晩入来よりの使僧からの情報を御老中に伝えた。(老中からは)「それは言語道断である。そういうことなら、こちらに判断を尋ねる前に(死罪と)判断すべきなのに、今後こうしたことがあっても、こちらは判断しない」とのこと。また、拙者が使僧を夕方に帰してしまったことも、まったくもって思慮が足りないとのことであった。書状をもってこの旨入来へ伝えるように、とのことであった。
 この日、平田美濃守(昌宗)殿の宿舎で、上使江月斎と寄り合った。客居の上座に江月斎、次に周琳、次に拙者、主居に伊集院右衛門大夫(忠棟)、次に濃州(平田昌宗)、次に伊集院右衛門兵衛尉(久治)殿であった。終日酒宴であった。
九日、いつものとおり出仕。昨日御老中から承った、入来院氏への書状を、長谷場織部(純辰)に頼んで書いてもらった。文章は摂州(喜入季久)・右衛門大夫(伊集院忠棟)殿に見せた。
十日、いつものとおり出仕。兵庫頭(忠平)殿から両使が派遣され、申し出があった。両使は恵日院と五代右京亮(友慶)であった。こちらからは、上原長州(尚近)と拙者が対応した。内容は、「鎌田尾州(政年、一五一四~八三、奏者鎌田政広の父)が下城して、上洛を計画しているようである。引き留めた方がいいのではないか。また、光明坊(佐竹義昭、諸国修行をしていて、忠平に召し抱えられた兵道者)も上洛するとのこと。先日、使節を派遣して引き留めたのであるが、使者に会うこともせず、返事もない状況なので、郡山寺(伊佐市大口大田)に説得を依頼した」とのこと。「鎌田尾州下城の件は、伊東上総入道に野心がある旨を、(政年が)飯野の忠平には伝えず、直接義久の耳に入れたことがあった。武庫様(忠平)は〝真判〟をだしており(この件を鹿児島に問い合わせた書状という意味ヵ)、憚り多いことであったため下城するとのことであるが、(忠平としては)まったく納得できない。なぜなら、このような件は鹿児島の義久に急ぎ伝えるのは当然であり、飯野に連絡が遅れたからといって下城するというのは納得出来ない。重ね重ね、尾州(政年)のつまらない言い訳であり、納得出来ない。飯野の判断をごまかすものではないか。(鹿児島が)ご存じないようなので、〝真判〟を出したのである」とのこと。

(補足・解説)
 島津義久のダークサイドがよく出ている。10月3日、平安末以来の名門国衆・菱刈氏(大隅本城領主)に対し、過去の敵対の歴史を列挙したうえで、他所への召移を打診している。その〝悪行〟を列挙した上で、召移を断れないよう追いつめているのが、義久らしいやり方である。
 同日の入来院重豊からの連絡は、伝聞が二重・三重になっており、訳しづらかったので、かなり意訳している。要するに、肝付領(大隅国)から入来院への不審者への対応を、わざわざ老中に尋ねたものであるが、7日には、この不審な出家夫婦とその下人を処刑したと伝えている。あらぬ野心の疑いをかけられ、所領を返上させられた入来院氏による当てつけとも思えなくも無い。
 この二つの件の前提として、この年4~5月頃に降伏したばかりの肝付兼亮の動向がはっきりしておらず、また、日向の伊東義祐との対決がそろそろ迫っているという状況を理解しておく必要がある。伊東氏を攻める際は、日向真幸口(宮崎県えびの市)からのルートが想定され、その背後に位置する菱刈氏が、またぞろ肥後の相良氏あたりと結託するのを島津氏としては恐れたのであろう。また、その伊東氏といまだ手切れ出来ていない肝付氏と、なにか連絡をとっていると疑われては叶わないと敏感になっている入来院氏の状況もうかがえる。
 なお、驚きのあまり、入来院氏の使者を勝手に帰らせてしまった上井覚兼は、老中から「分別不足」だと怒られている。

『上井覚兼日記』天正2年(1574)9月11日~30日条 [上井覚兼日記]

十一日、(記載なし)
十二日、(記載なし)
十三日、この日、田布施に向かい、途中で出迎えて、(義久の)お供をした。
十四日、金蔵院(金峰山、南さつま市金峰町)で(義久が)祈願。伊勢殿(島津薩州家忠陽)は、院主の次に座られた。
 この日、(義久が)能を奉納する予定であったが、雨が降ったので中止となった。
十五日、金蔵院にて能の奉納が成就した。
十六日、常珠寺で(義久が)祈願。
十七日、鮫島土佐守(宗豊)殿の子息が元服。そのついでに、衆中の子息や、また阿多・加世田からも多くが(義久に)面会に来た。
十八日、伊作の湯(現在の吹上温泉ヵ)に出かけられた。この日、酉時(午後六時)ごろお暇申し上げて、永吉に向かった。
十九日、(記載なし)
二十日、(記載なし)
二十一日、(記載なし)
二十二日、永吉有島の道を作り直した。
二十三日、鹿児島に帰った。
二十四日、いつものとおり出仕。新田宮執印殿から書状をいただいた。内容は、「先月から続く相論のこと(八月七日・十八日・二十日・二十四日・二十六日条)、ご祭礼が済んだので、急ぎ裁決してほしい。」とのこと。これを、白浜周防介殿・伊集院源介殿・拙者三人宛にいただいた。御老中に披露した。談合を開き、急ぎ裁決するつもりとのこと。とりあえず、返書は適当に出しておくように、とのことなので、内容に立ち入らないように拙者一人で書状で返事をした。
二十五日、月次(つきなみ)連歌の連衆(れんじゅ)として参加した。
二十六日、いつものとおり出仕。野村美作守(秀綱)殿(平佐地頭)からの書状の内容を、御老中に披露した。野添氏・寺田氏の移動希望について、また、先日大坊を使者として申し出た(八月二十六日条)、天辰名のことである。返書の内容を、(老中の)平田濃州(昌宗)・(伊集院)右衛門大夫(忠棟)殿にご覧に入れ、殿中で書いてすぐに送った。
 この日、和泉(島津薩州家義虎)から使者である島津伊勢守(薩州家忠陽、一五三八~八一、薩州家忠興弟興久の子、忠陽の子久守は西川氏を名のる)殿・指宿周防介・知識弾正忠の三人の仮屋(宿舎)に、寄合中からの使者として、本田若州(親豊)・伊地知勘解由(重秀)・拙者の三人が派遣された。内容は、「現在、世間で雑説(薩州家謀叛の噂)が立っているが、特に先月の初めごろ、喜入久屋斎(喜入氏一族、薩州家家臣ヵ)がこちらに来た。その際、聞いたところでは、「その雑説とは、中書様(家久)から出たものであり、急ぎ義虎が串木野(家久居城)に来て弁明するように。もし弁明が無いのならば、御身(義虎)は終わりになるぞ(誅伐あるいは改易を示唆したものヵ)」と言ったらしいと、喜入久屋斎が喜入摂州(季久、老中・喜入領主)に伝えたので、本田若州(親豊)を使者として、中書様(家久)に事実確認をした。すると、貴殿様(義久)が仰るように、中書は少しもその件は知らないと、直接和泉(薩州家)の使者に話したとのことである。(これに対し)勢州(薩州家忠陽)の返事は、「少しもこのような憶測は、山北(いちき串木野市の「薩摩山」より北の意。この場合、薩州家領を指す)では聞いたことが無い。義虎の言い分、また喜入久屋の言い分を聞いてくる」との返事であった。そのほかにも、高城(薩州家領、薩摩川内市の川内川下流域北岸)と東郷(国衆東郷重尚領)境の雑説(八月四日条)について、いろいろと我々三人に説明してくれた。
二十七日、いつものとおり出仕。昨日の和泉の使者からの返事を、(義久の)お耳に入れようと思っていたが、伊地知勘解由(重秀)・河上(忠克)殿が奏者として御前に参上した際、直接(義久から)お尋ねになったので、勘解由(重秀)一人で勢州(薩州家忠陽)の弁明とそれに対する老中の意向を詳しく申し上げたらしい。それから、また右の三人を和泉仮屋に派遣された。その内容は、「このたび、(喜入)久屋斎が申したことと、使者の考えが異なるのであろうか、勢州同心の人衆を山北に帰して、義虎の言い分を聞いてくるとの判断であろうか。もっともなことである。とにかく、そちらの考え通りでよい。次に、このようにたびたび雑説(謀叛の風聞)が生じており、何か義虎は企んでいるのか、あるいは(島津本宗家への)謀叛を起こすつもりでは無いかと噂されている。いまだこちらにはそうした情報は伝わっていないが、和泉の人衆がそうしたことを申しているのだろうか。あるいは、(薩州家の)家景中(家臣)が申しているのだろうか。誰、何という名字のものが、どのような目的で申しているか、はっきりと説明するように」とのこと。それに対する勢州(薩州家忠陽)の返事は、「昨日は、(喜入)久屋斎が申した〝一ヶ条〟についてだけでしたので、同心の衆を一人帰らせて、詳しく山北の言い分を聞いてくる旨申しました。再び(義久から)ご質問いただいたので、三人いっしょに(和泉に)いったん帰りたい」とのこと。この旨、平田濃州(昌宗)殿に伝えた。とにかく今日は逗留して、明日御屋形様にお目にかかってから退出するようにと、内衆にてお命じになった。
 この日、和泉の使者の宿所に、本田若州(親豊)・伊地知又八殿(重秀の子重元)・拙者で、酒を持参して挨拶に行った。そのとき、拙者に勢州(薩州家忠陽)が仰るには、「東郷と高城とで相論となっている、〝けしかり〟(花熟里、日置市吹上町華熟里)畠地のこと。以前、指宿周防介を使者としてこちらに説明した。そのとき、御使(使番)を伊地知勘解由(重秀)と拙者がつとめた。そのときの筋目があったので、(拙者に)言う。防州(指宿)が説明したとき。こちらからの返事には、『けしかりの事は、双方の意見を聴取するので、どちらの所領ともしない』とのことだった。にもかかわらず、東郷側が麻を植えてしまった。勢州からその件を尋問したところ、東郷からの返事は『全く鹿児島にうかがいを立ててこのようなことをしたのではない。下々のものが勝手に植えたのだ』とのことであった。そういうことならばと、高城側からその麻をことごとく刈り取った。このような行為は、それなりの立場のもの考えでやったことであり、下々が勝手にやったのならば、刈り取る際に妨害するか、刈り取って没収したなら、東郷側から押しかけてくるであろう。もしそうなったならば、義虎が外聞(評判)を失う事態になるでしょう。とにかく、急ぎ(花熟里の所有権を)どちらかに決定していただかなければなりません。」とのこと。そこで、この件を御老中に申し入れた。追って、東郷の言い分を聴取し、返事をするとのことであった。
二十八日、いつものとおり出仕。この日の朝、天草からの使僧来迎寺を、(義久が)お目に懸けた。天草(鎮尚)殿からの進上物は、太刀一腰・厚物二端・馬代三百疋。使僧の個人的進物は、中折三束・扇一本のようであった。
 この日、和泉使者の宿所に、伊地知勘解由(重秀)と拙者が使者として派遣された。上意の内容は、「現在、和泉と天草が義絶している。そうしたところ、天草からの使僧が、島津家に取りなしを求めてきたが、寄合中は(仲介することに)疑問を感じている。ただ、両者が合戦しているわけではなく、先代大岳様(島津本宗家九代当主忠国、一四〇三~七〇)以来、(天草は)当家とたびたび好を通じていたところ、そのご少々中絶していたが、今から先例通りに好を通じたいとの意向を、新納武州(忠元)まで長文にて伝えてきた。その上、老中にまで書状を送ってきたのである。この二通を勢州(薩州家忠陽)にも見せるように」とのことで、(二通の書状を)持たされた。そこで、拙者が読んで、和泉の使者に聞かせた。この書状を写したいとのことで、仮屋(宿舎)に置いておくのでお考え通りにと伝えた。次に、天草と和泉(薩州家)の和睦の件。義虎からは、どの場所でもかまわないので、少し所領を割譲してくれるのであれば、和睦(無事)してもよい、とのこと。(天草からの)使僧に新納武州(忠元)から尋ねたところでは、「所領割譲は出来ない」との回答であったが、極力義虎の意向を来迎寺に伝えるつもりであると、勢州(薩州家忠陽)に我々二人で伝えた。勢州の返事は、「ご丁寧な対応、かたじけない」とのことであった。
二十九日、いつものとおり出仕。伊地知式部大輔(重隆、?~一五七八)殿から同名源左衛門尉・浜田主馬允のふたりで、申し出があった。「高橋(南さつま市金峰町高橋)に〝一所地〟として拝領しております所領は、すばらしい所です。海辺なので、諸事下々のものまで住みよいところです。しかし、山がありませんので、殿中の材木や普請の材料が賦課された時、思うようになりません。ちょうど伝え聞くには、入来院氏が山田を返上されたといいます。そちらの田数は、高橋と同じくらいの場所ですので、召し替えて欲しい。国境であり、若輩である自分には似合わない場所ではありますが、(高橋には)あまりに山が無く、なにかと思うようにならないので。」と、老中まで申し出た。返事は、「いまのところ、(山田については、義久からの)決定・指示は無い。いそぎ談合をするつもりである。その時に、(所領替えの話が)出るかもしれない。もしかすると、あなたのためになることも出るかもしれない」との上意であった。次に、このたび右馬頭(島津以久、大隅清水領主、一五五〇~一六一〇)殿が鹿児島に参上されて談合することとなった。伊集院美作守(久宣)・宮原筑前守(景種)の二人も談合に加えるようにとの(義久の)上意があったので、伊集院右衛門大夫(忠棟)殿からふたりに伝えることとなった。そこで、御老中が書状を認めて、二人に遣わした。
 この日、春山(鹿児島市春山町)での〝呼〟(狩りのこと)にお供した。
三十日、春山でお狩り。その夜までお供して、帰った。

(補足・解説)
 薩摩国和泉領主である島津薩州家義虎の「雑説」(謀叛の風聞)がいよいよ大きくなってきました。薩州家側は、一族の島津伊勢守忠陽(義虎の大叔父興久の子)ら三人が使者として弁明に来た。話がややこしくなるのは、喜入久屋斎という人物の話が登場するためである。彼は、老中喜入季久の一族のようであるが、どうも和泉に在住しており、薩州家の家臣か本宗家からの目付として派遣された人物のようである。彼がもたらした情報によると、「今回の雑説の出所は、串木野の島津家久であり、家久が義虎を脅した」ということであったが、家久本人、そして義久もこれを否定している。
 家久が出所というのはどこまで本当か分からないが、8月4日に薩州家と東郷氏の紛争が生じていたにもかかわらず、本宗家は動いていない。こうした細かい事実を積み上げて、ここに来て一気に薩州家を追いつめるつもりだったのか、27日の義久からの詰問はかなり厳しい。証拠を積み上げて、攻め立てるのは義久得意の手法のようであり、これから十数年後に上井覚兼自身がやられている。
 29日条では、高橋の一所持である伊地知重隆が、入来院氏の旧領山田への繰替願いを出している。山田への繰替願いはこれで3人目。よっぽどいい土地なんだろう。
 なお、覚兼は自分の所領である永吉(日置市吹上町永吉)に滞在中、日記を書いていない。この時期の日記は、あくまで「奏者」としての勤務内容を記録することを目的としており、プライベートなことは書かない方針だったのだろう。プライベートなことも書くようになる、宮崎地頭時代の日記との大きな違いである。

天正2年(1574)9月26日条の見直し


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