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『上井覚兼日記』天正2年(1574)9月1日~10日条 [上井覚兼日記]

今回から9月に突入します。

一日、いつものとおり出仕。和泉(島津薩州家義虎のこと、鹿児島県出水市麓町の亀ヶ城を居城とする)から瀬崎之馬追をやって、あまり成果は良くなかったが、駒一疋を進上しますとのこと。また、(義虎の)奥さん(島津義久の長女「御平」)から「先日、ご丁寧に使者にてご挨拶いただきました。わざわざお礼申し上げるべきですが、まずはついでにお礼申し上げます。」とのこと。使者は、松岡民部左衛門尉という人であった。やがて(義久から義虎に)ご返事申し上げるには、「瀬崎駒をいただきました。ひときわ良い駒で、力の及ぶ限り大切にし、いつかこちらにご参上の際に、ご覧に入れます。」とのこと。奥さんへご返事申し上げるには、「先日、小者衆を派遣したところ、そのお礼をいただき、とても礼儀正しいことだと感服しました。どなた様もお元気とのこと、これも喜ばしいことです。」それから、使者がお暇申し上げたが、御老中から御用があるとのことで、この日は留まるよう伝えた。
二日、いつものとおり出仕。平田石見守殿が言上した。「子供の隼人佑が牛根に召し移されました。我々もそちらに移るべきでしょうが、隼人佑の立場もいまだしっかりしていないので、一月から二月ほど、今の「役所」に留まりたい」と、御老中に申請した。これを、伊集院右衛門大夫(忠棟)・平田美濃守(昌宗)・村田越前守(経定)の老中三人に伝えた。ご返事はなかった。
 この日、和泉(島津薩州家義虎)からの使者松岡民部左衛門尉殿の仮屋(宿所)に、御老中の使者として参った。昨日、(帰城を)とどめたことに他意は無い。ただ、現在世間ではいろいろと雑説(薩州家謀叛の噂)が飛び交っている。それについて義虎殿が、一貫して懸念していると、長文の手紙で(義久に)申し上げたところである。それについて、(義久は)「一ヶ条」(何らかの制裁、糾明?)老中から伝えるようにとの意向である。薩州家義虎の使者がそれを拝命するか、あるいは(この使者が分不相応と)ためらうのであれば、後日誰か、高城・水引あたりの衆中を二人ほど派遣させ、そのときに「一ヶ条」命じる」と、老中の仰せである。彼(松岡)も納得し、「後日必ず誰か参上させるでしょう」と言って帰っていった。拙者が使者をつとめた。
 この日、殿中での弓を、根占(重長)殿が企画した。それを、豊州(島津豊州家朝久)が見物したいと、我らに伝えてきたが、(義久様が)体調不良なので、遠慮するよう伝えた。
三日、いつものとおり出仕。兵庫頭(忠平)殿が昨日鹿児島に到着したとのこと。
四日、出仕しなかったところ、談合があるので来るようにと言われて、未刻(午後二時ごろ)殿中に参上。飯野口(宮崎県えびの市飯野、対三之山の伊東勢)攻略の談合であった。兵庫頭(忠平)殿、北郷一雲(時久)のご意見をしっかりと聴取しないわけにはいかないということになり、新納武州(忠元)・鎌田尾州(政年)・本田野州(親貞)・上原長州(尚近)を使者として派遣した。
五日、入来院(重豊)殿より、東郷宗左衛門尉という使者が来た。木練の柿(甘柿)があったからといって、籠十を進上された。(拙者が)取りなして、(義久が)使者をお目にかけた。御老中からの意見があり、どこの間(部屋)でお目にかかるべきかについて、年始・歳末・八朔の使者とは異なるので、朝ごとの出仕時に上覧なされる間でお目にかけるのがいいだろうとのことだったので、そのように対処した。すると、その後、白浜次郎九郎殿から、上意があり、「かの使者(東郷宗左衛門尉)は中間なのか、どうなのか?」とお尋ねがあった。先ほどのように子細を申し上げたところ、また上意があり、「それは老中が忘れていたのであろう。国衆からの使者は、だれでも対面所のなげしより上にてお目にかけるように」とのことであった。
 この日、また(飯野口)攻略の談合があった。我々も殿中に出仕し、談合に参加した。霧島の御鬮に従い、軍事行動を決定すると決まった。
六日、いつものように出仕。この日、(足利義昭からの)上使江月斎と(義久が)寄合をされた。早々に殿中にお出でになるようにとの使者は、拙者が派遣された。上使は、頴娃(久虎)の仮屋を宿所としていた。私は趣旨を伝えて、戻った。殿中の門までは、頴娃仮屋の閑月という者が案内者をつとめた。奏者は、伊地知勘解由左衛門尉(重秀)で、門まで出迎えた。はきものは、あまうちまで履いていた。それから、唐戸の(義久が)お座りの座から下の座にご案内し、平敷居の上手から上使はお入りになり、奏者は平敷居より下手から入った。それから対面所にて寄合があった。主居は、御屋形様、次に喜入摂州(季久)、次に平田濃州(昌宗)、客居は、上使、次に橘蔭軒(畠山頼国)であった。御膳は三つめまで出した。引き物(引き出物)がいろいろとでた。酒を三辺後、お湯が出た。肴はその都度ごとに出た。御前(義久)の給仕は、新納刑部大輔(忠堯)・本田紀伊守(董親)、客の前は、高崎兵部少輔(能賢)・梅北宮内左衛門尉(国兼)、いずれも手長(酒宴膳部を次の間に持って行く給仕・仲居)は無かった。そのほかの給仕衆は、伊地知勘解由・河上源三郎(久辰)・上原太郎五郎・伊集院源介(久信)・拙者であった。以上、これらの衆であった。「あるむきにて」(意味不明)点心が出た。肴・酒はもちろん、たびたび出された。客人の立つ処(?)は、素麺に据え替えて、肴を出した。その肴が下げられる前に、盃を奉ろうと、給仕が持って出たところで、(上使が)立ってしまった。貴殿様(義久)がなげしの下まで出て、ご挨拶された。酉刻(午後六時)から戌刻(午後八時)までで終了した。
七日、いつものように出仕。この日、田布施の立願の能があるということで、田布施に(義久が)急遽お越しになることになり、お供した。永吉の祭礼もあるので、お暇して(永吉に)向かい、直接、田布施に参ると伝えて、永吉に向かって。
八日、この晩、久多島に参詣。御幣を新たに作ったということで、頂戴した。
九日、「呼」(狩の一種ヵ)に登った。鹿一頭を手火矢で仕留めた。
十日、(記載無し)

(補足・解説)
 島津薩州家義虎からの使者が来ている。ついでに、義虎室=島津義久の長女「御平」からの手紙が届けられているが、これは義久の怒りを緩和するためだったようである。ただ、こんな手は義久には通用しない。雑説(謀叛の噂)がのぼり、「一ヶ条」求められている。『上井覚兼日記』で「一ヶ条」と出てくる場合、相手に対する処罰の意味合いが多い。この場合、雑説への弁明を求めているのだろうか?この雑説が流れる原因は、8月4日条あたりにみえる、薩州家と東郷氏の抗争あたりにあろう。
 後半は、義久の居城である「御内」での、儀式、しきたりについての記述が多い。覚兼が「奏者」をつとめるにあたり、備忘録として日記をつけていたことがうかがえる記述である。それとともに、「御内」内部の構造についても、うかがえる記述があり、興味深い。

『上井覚兼日記』天正2年(1574)8月21日~29日 [上井覚兼日記]

一週間ぶりの更新です。

二十一日、御老中にお暇申し上げて、(自分が地頭をつとめる)長吉(日置市吹上町永吉)に向かった。
二十二日、拙者が留守中に、川上久隅殿が藺牟田地頭役辞退の件について、義久からの命を伝える役を、伊地知右衛門兵衛(久治)殿がひとりでつとめたとのこと。二人で先日使者をつとめたので、その結果を伝えてもらった。
二十四日、この日、午刻(十二時頃)鹿児島に戻った。それから、平田濃州(昌宗)のところに参り、談儀所にもご挨拶した。その座に参ったついでに、(談儀所から)新田宮衆へ意見(和解勧告)をしたが(八月七日・十八日・二十日条)、受け入れられなかったと承った。
二十五日、月例の連歌会に参加した。座は護摩所であった。貴殿様(義久)・不断光院が同席した。拙者は、五句詠んだ。
二十六日、いつものとおり出仕した。新田宮衆の相論の件(八月七日・十八日・二十日・二十四日条)を、御老中に伝えた。摂州(喜入季久)・意鈞(川上忠克)・伊集院大夫(忠棟)・村田越州(経定)・平田濃州(昌宗)皆々そろって御談合。「現在、新田宮は「御柴中」なので、今回は帰宅させ、「柴」が過ぎてから採決を出す」と伝えるようにとのことだったので、先日来の使者三人で、執印殿・千儀坊に対し、諏訪座主坊において伝えた。なんとか今回で終結させたいとの意向であったが、今後とも御老中にお頼りする立場なので、とにかく御意に従うとのこと。「柴」が過ぎたら、必ず御採決いただくようお願いしたいとのこと。安養院(諏訪社別当寺)もご意見(和解勧告)されたようであり、御老中の村田殿にこの旨報告した。もっとなことであるとのことであった。座主・権執印に対しても、明朝にこの旨伝えるようにとの仰せであった。
 この日、平佐地頭(野村秀綱)から使者大坊が参った。内容は、「入来院(重豊)殿が山田・天辰・田崎を返上されたと聞き及んだ。平佐には、しっかりとした門(かど)が付いていないので、城誘・普請などが出来ないでいる。天辰・田崎を平佐に付けてほしい。先に誰も希望する人がいないうちに、ということで申し出た」とのこと。
二十七日、虫が悪くて(虫気=内蔵系の疾患)、出仕しなかった。昨日、村田(経平)殿が、平佐からの要望を寄合中に披露した。今朝、使僧(大坊)と同心して殿中に参上しよう考えていたが、虫気が出たので、使僧だけで殿中に参上するよう伝えて、本田下野守(親貞)殿に引き継いだ。拙者の忰者が大坊の案内者をつとめた。しかし、事情を聞かないで、また大坊は拙者に(取次を)頼みたいとのことなので、同心して酉刻(午後六時頃)に殿中に出仕した。(足利義昭からの)上使江月斎が、今日(義久と)会見していた。そのときに出仕していた老中衆が皆同席したので、(平佐の件を)披露した。山田・天辰・田崎の事は、特に談合しているので、(要望に応えることは)難しいとの返事であった。
 この日、座主・権執印に返事をして、(新田宮に)帰らせた。
二十八日、いつものとおり出仕した。今日は、能の日であった。支度をして日中に伺うよう命じられて、帰宅した。
二十九日、いつものとおり出仕した。国分筑前守(定友)殿から書状をいただいた。御老中にお目にかけて、返事出すよう命じられたので、返書を書いた。その内容は、「天満宮(現菅原神社、薩摩川内市国分寺町)御宝殿が大破したとのこと。特に、ご神体が雨露にさらされているとのこと、とんでもないことである。しかしながら、今は以前のような宝殿を作ることは出来ない。なぜなら、新田宮が先に修繕計画をたてているが、それもいまだ出来ていない。まずは、茅葺きの仮殿をつくるのがいいだろう。これくらいのことなら、国分殿の判断でできるのではないか、ということを老中から伝えるよう命じられた」と返事に書いた。
 この日、鎌田図書助(政近)殿(向島・大隅新城地頭)が仰るには、「このたび、新城(垂水市新城)に参り、〝役所配〟(新たな衆中への知行宛行ヵ)をおこなった。現在、三十か所ほどあるが、さらに移衆を命じてほしい。次に、向島(桜島)に材木調進を命じられたが、明日から三十日間、向島は〝柴〟である。その間、(材木調進は)難しい。特に、〝すの板〟十枚ずつということであるが、一度に準備するのは難しい。少しずつ調進したい。向島でこれほどの材木を準備するのは、すべて神木なので(難しい)。下々の者は、船木などをとる必要があり、それぞれ苦労して社人(大隅正八幡宮の社家ヵ)と談合している。御材木(島津氏から調進を命じられた材木という意味か)とはいえ、これを伐採するのは恐れ多いというので、向島の役人二人を連れてきた」とのことである。御老中の返事には、「新城移衆の事は、まず書状にて詳しく承っており、談合の最中である。次に向島の神木については、必ず神木を伐採せよとこちらから命じたことはなく、ただ、島に賦課した〝天役〟にすぎない。山がない在所であっても、公役であるのでこのような賦課も応じている。その在所在所の判断で、材木を調達すればよい。こちら(老中)としては、(どのように調達するかは)知ったことではない」とのことであった。
 この日、税所新介(篤和)殿から伊集院右金吾(久治)殿に対し、内々に申し出があり、「今ちょうど移替の時期なので、青江江兵衛を伊集院(日置市伊集院町)に召移すよう、伊集院大夫(忠棟)殿に頼んでほしい」とのこと。返事には、「そのように取り次ぎます。ただ、内々に(義久の)上意を得てから追って伝えます」と申した。

(補足・解説)
 21日から二泊三日で、地頭を兼務する永吉に行っているが、なぜか日記には記していない。プライベートな所用だったのか。なお、天正2年(1574)段階の日記には、公務が中心で、個人的なことはあまり記されていない。宮崎時代の天正10年(1582)以降の記述とは対照的である。
 新田宮での相論は、「柴」を理由に裁決が先延ばしになっているが、「柴」がなにか分からない。29日条にも、「柴」が登場しており、新田宮だけでの問題でも無さそうである。
 なお、現在の桜島は全域が溶岩で覆われており、あまり材木に適した森はなさそうだが、当時はそれなりにあったようで、29日条には「神木」とある。大隅正八幡宮(現在の鹿児島神宮)は、もともと桜島を御神体としていたようなので、この「神木」とは、正八幡宮の神木という意味であろう。
 27日条によると、この時期、将軍足利義昭の上使江月斎が下向してきていることがうかがえる。覚兼は担当奏者ではなかったようで、詳細を記していない。前年7月、足利義昭は敵対していた織田信長から追放され、この頃は、紀伊国興国寺に滞在中だったようで。この上使は、島津氏への経済的支援を要請したのであろう。

祝!上井覚兼誕生日 [上井覚兼日記]

 本日、2月11日は、新暦ながら上井覚兼の誕生日です。
『上井覚兼日記』番外編として、その生い立ちについて書いておきましょう。

 覚兼は、天文14年(1545)2月11日、大隅国上井にて、父上井薫兼・母肝付兼固の娘の長男として誕生しました。

 こちらが、父上井薫兼の居城「上井城」です。上野原遺跡ちかくの展望台から撮ったものです。
上井城.jpg

 場所はこのあたり、鹿児島県霧島市国分上井になります。現在、南公園ということになってますが、整備不十分で眺望はよくありません。


 覚兼の頃は、現在の天降川が国分中心部を流れており、上井城のすぐ西側から錦江湾に流れ込んでいました。つまり、上井は大隅国衙の外港的位置にあったようです。覚兼は天文22年(1553)、父薫兼が薩摩国永吉地頭として移封される9歳まで、この地で育ちました。『日記』では、たびたび覚兼が地引き網など漁猟に興味を示しますが、それはこの地における幼少体験によるものかもしれません。

 父薫兼の移封にともない、覚兼が移り住んだのが、薩摩国永吉、現在の日置市吹上町永吉です。
場所はこの辺り↓

 現在の永吉小学校の裏山が、永吉城のようです。

 この永吉城の南側、愛宕山と呼ばれる山の麓にあったのが、文解山という禅宗寺院で、覚兼は天文23年(1554)から元服する永禄2年(1559)頃まで、ここで学問を学んだようです。
現在、その故地には、次のような看板が立っています。
文解山1.jpg

 愛宕山頂上からは、西に吹上浜・東シナ海、北に永吉城とその麓が一望できます。
文解山2.jpg
文解山3.jpg

 永禄2年(1559)頃に元服して「為兼」となのった覚兼は、島津貴久に出仕し、その後家督を継承。天正8年(1580)8月、宮崎地頭に任じられて移封されるまで、この永吉の地頭をつとめました。

『上井覚兼日記』天正2年(1574)8月16日~20日 [上井覚兼日記]

1月末からクソ忙しかったので、久しぶりの更新です。

十六日、いつものとおり出仕した。入来院殿(重豊)の血判が届いた。入来院氏内衆五人の血判もあわせて届いた。これは皆役人(家老?)どもである。やがて、血判を(義久の)お目にかけた。入来院氏からの口上は「尾(?)から川内の方を皆返上する旨申し上げたところ、寄田はこれまでどおり下されるとのこと、そのほかも形だけで替地を下されるとのこと、感謝に堪えません。長くこの恩を忘れることはありません。また、山田・天辰に今現在在住の人衆については、清色に移すことは難しいです。こちらからうち捨てるのも忍びがたいので、人衆と合わせて召し上げていただきたい」とのこと。この旨、(義久に)御披露した。すると、(義久は)どう返書を記すか、また人衆をあわせて召し上げるか否か、この二条について老名敷衆(老中)に尋ねるようにとの意向だったので、そのまま老中に尋ねた。老中達が申すには、「返書については、以前入来院氏が神判(起請文)を出してきた時は返書をした。今回は入来院氏に二心があって再び提出されたのであり、こちらから心替わりがあったわけではないので、(返書は)無用である。また、人衆も合わせて召し上げてほしいとの件は、覚兼が返書を出すように」とのことであった。返答は「きっと皆さん年頃の人衆(入来院氏に長く仕えたという意味ヵ)であろうから、こちら(島津氏)の家臣にはならないでしょう。そちら(入来院氏)で引き取るのがいいでしょう、と述べるべし」とのことだったので、そのとおりに伝えた。また、「今後は、起請文に血判して誓ったように永久に二心を抱くことのないよう、書状で命じるべきではないか」との上意があり、老中衆も尤もだとの意向で、すぐに長谷場織部佑(純辰、右筆ヵ)に書状執筆を命じられた。
 この日、中書様(島津家久)から老中に対し、内々に要請があった。対応の使者は、新納武州(忠元)・拙者がつとめた。その内容とは、「(家久が)隈城(薩摩川内市隈之城町、地頭は比志島国真)西手名に四〇町ほど所領を格護している。その所領は「入乱」(錯綜しているということヵ)ているので、隈城とたびたび相論がおきていて困っている。そこで、このたび入来院氏が山田・天辰・田崎を返上したと聞いた。山田(薩摩川内市永利町)は三〇町の名である。しかし、以前「方分」の際、半分はこちら(家久)の所領となった。その残りは、当然三〇町まではないはずだが、三〇町ということで(入来院氏から)召し上げられた。天辰・田崎は、合わせて一二町であり、合計で四二町となる。これを、隈城に格護の所領と繰り替えて欲しい」、との要請であった。二言を言っているつもりはないとのこと。もうひとつ「入来院氏の今回の一ヶ条(野心ありとの噂)は、家久も通報者のひとりであった。つまり、この所領が欲しくて、こうした噂を流したと世間から見られると、困ったものである。これも御老中にご判断いただきたい」とのこと。御老中の返事には、「たいへんいいご提案かと思います。しかしながら、御前(義久)のご意向を存じませんので、こっそり内々に意向を聞いてみます」とのこと。「それもご判断にお任せします。」と中書(家久)は仰った。
十七日、いつものとおり出仕した。川上上州(久隅)の藺牟田地頭辞退の件。伊集院右衛門兵衛尉(久治)と拙者の二人で(義久に)披露した。「彼(川上久隅)は、真意と発言が異なる人なので、今後も(地頭を)お頼みしたいと伝えるのがいいだろう」との上意であった。川上氏がこのような役(地頭職)をつとめるのは前代未聞であるとの主張については、「十四・五年の地頭を勤仕しているのであり、今はじめて任じられた訳ではないだろう」とのご意見であった。
 この日の朝、川辺と島津忠長の相論について、左馬頭(忠長)殿が承諾しなかったことを、(義久に)披露した。直接本田下野守(親貞)を使者として、内々の協議結果を忠長に伝えるように、とのことであった。ついでに、平田宮内少輔の移動願い(八月十四日条)についての義久の意向が示された件につき、平田濃州(昌宗)から御老中に対し申し入れがあり、寄合中といっしょに拙者も承った。(平田昌宗としては)同名(同族)であり、とくに迷惑しており、驚いている。あれこれ申し上げるような立場に無いとのことであった(老中として諮問を受けることを辞退したいとの意味ヵ)。(義久の)御返事には、「濃州(平田昌宗)の心遣いはもっともである。しかし、このような案件は、親子・夫妻には相談するものである。まして、同名であるからといって、そこまで心遣いするのは無用である」と仰った。この旨、平田昌宗に伝えたところ、かたじけない上意であると仰って、寄合中に対し御礼を述べられた。
 この日、左馬頭(忠長)殿から伊地知勘解由(重秀)と拙者が呼ばれたので、二人で忠長の宿舎に参上した。承ったのは、「川辺との相論について、きちんとした対応がなされていない。とくに現在、各地から相論が持ち込まれ、お忙しいようなので、処理がすすまないのだろうから、お暇申し上げる(鹿児に帰る)」とのこと。すぐに、伊集院右衛門大夫(忠棟)・村田越前(経定)・平田濃州(昌宗)に伝えた。御前(義久)に披露するようにとのことだったので、殿中に参上して、小人(小姓ヵ)弥三郎殿を通じて申し上げた。明朝詳しく聞くとのお返事であった。
十八日、いつものとおり出仕した。中書様(家久)が内々に老中衆に申し入れた件(八月十六日条)、これを拙者一人で御前(義久)に披露した。義久の上意は、「西手名を繰り替える件は、まったく納得出来ない。なぜなら、隈城と相論がたびたびおきていると言っているが、なにか問題があるとは自分は聞いていないのに、相論があるという理由での繰替希望はいかがなものか。そして、山田を希望しているとのことだが、ここも一城ある場所なので、平地などとは違い、城を与えることはいかがなものか。特に、今でさえ金吾(歳久、義久弟・家久兄)が中書(家久)の分限(所領)をみて、いろいろと不満をいうことがある。いわんや、城(永利城)と所領を与えたならば、いよいよ不満が尽きることが無くなるではないか」とのことであった。御老中ももっともだと同意して、すぐにこれを中書様(家久)に伝えるようにとのことだったので、承った。
 入来院殿(重豊)へのご返書(八月十六日条)が、この日の朝出来上がったので渡すとともに、返事もおこない、入来院殿はお暇申し上げて、(入来院に)お帰りになった。
 中書(家久)の宿所に参ったが、お留守だったのでむなしく帰った。
 この日、平田新左衛門尉(宗張、川辺地頭)殿の宿所に、伊地知勘解由(重秀)と拙者が、御老中の使者として伺った。内容は「左馬頭(忠長、鹿児領主)との口事(相論)について、(忠長が)まったく納得せず、鹿児に帰ってしまったので、今回は決着しないだろう」と伝えた。彼は川辺に帰っていった。
 この日、執印河内守殿と座主・権執印の口事(相論)について(八月七日条)、まず河内守殿の言い分を聴取した。その主張は「三昧衆宮田杢助という者を、自分の養子として定めたいのであるが、座主・権執印が妨害している」とのこと。それから座主・権執印・総官大検校を拙宿に召し寄せて、言い分を聴取した。(聴取の)使者は伊集院源介(久信)・白浜防州・拙者であった。彼らの言い分は「執印河内守の養子となった者(宮田杢助)は、「殿守」(給仕の女官)の子である。三昧衆というのは、座主・権執印と同座に参るものなので、彼(宮田杢助)がそれほどの高職に就くことなどありえない」とのこと。我々は「彼(宮田杢助)の叔父にあたる人物は、正宮司ではないか。これはどうなんだ」と尋ねた。彼らは「その人物は、神道大阿闍梨であり、その上出家であるので、位(身分)の高下は無関係である」との回答であった。
十九日、いつものとおり出仕した。座主・権執印の相論につき聴取した意見を、御老中に伝えた。老中としては、「三昧衆という立場として、彼(宮田杢助)がふさわしくないというのか。しかし、養子になったのであれば、いかなる賤者(身分の低い者)であっても、養父の身分次第となるのであり、元の親(実の親)の身分や名字などは無関係である」とのこと。これは間違いないので、彼(宮田杢助)を三昧衆から外すことはできない。ただ、新田(宮)はよそに替わったので、神慮がこのようになったと主張するが(?)、道理はまったく通っていない」とのこと。
 この日の朝、川上殿(久隅)がふたたび(藺牟田地頭)辞退を申し出たので、(義久の)上聞に達した。上意では、「(川上)名字でこのような役は務めないとのことであろうか。これはそうであろう。しかし、上野守殿(久隅)は、真幸口(日向国真幸院、伊東氏との境目)で合戦ともなれば、おおいに頼りとする人です。人衆を是非召し連れていっていただきたいので、藺牟田地頭をもうしばらくお勤めいただきたい」とのことであった。
二十日、寄合中と一緒に御前(義久)に申し上げた。内容は「入来院重豊殿がこのたび所領を少々返上されました。天辰(薩摩川内市天辰町)については、以前川内を攻略した際、本田紀伊守(董親)に与えるようにとの仰せで、本田に宛行われるところでしたが、これは入来院氏に与えない訳にはいかないとの意見が出て、入来院氏に与えられました。紀州(本田董親)はその際、格好悪い状況になってしまったようです。幸運なことに今回所領が空いたので、本田に与えるのがいいのではないでしょうか」との上申。拙者が取り次いだ。(義久の)御意は「適切な上申である。よきように寄合中で談合の上、処理するように」とのこと。
 この日、吉利(忠澄)殿より申し出があった。「先月以来、野頸原で相論があり(八月二日・五日条)、(覚兼の)役人二人が召し放ちとなった。このたび(吉利殿が)鹿児島にお越しになり、御老中のもとを訪れ、二人を召し直すよう申し入れたので、早々に召し直すように」とのことであった。拙者は留守だったので、安楽弥平兵衛尉が承っておいた。吉利殿からの使者は、木原掃部助であった。
 この日の夜、談議所(大乗院盛久)に、(新田宮の)権執印・座主と執印殿との相論(八月七日・十八日条)について、ご意見(和解の仲介)をするように、白浜(重政)殿と拙者の二人が使者として申し入れた。明日、意見するとのこと。

(補足・解説)
 前回うっかり書き忘れましたが、桐野作人さんも御指摘のように、8月14日条に、当主島津義久の父貴久に対して、平田安房介が毒を盛ったとの下々の噂があったことが記されている。17日条では、その余波を受け、老中の平田昌宗が、同族という理由で老中辞職の意向を示して、慰留されている。同族と言ってもかなり離れた一族のようである。
 入来院重豊が返上した、川内川下流域の所領の分配をめぐって、いろんな駆け引きがあったようである。なかでも、中書家久(義久異母弟)の動きが面白い。相論解消を理由に、山田を拝領したいと申し出ながら、「所領が欲しくて入来院氏謀叛の通報をしたと見られるのは嫌だ」とは。後年の謀略好きの性格がこの頃からにじみ出ている。
 奏者という立場にあるため、相論に関する記述が多いなか、18日条の身分に関する判断が面白い。宮田杢助の三昧衆就任につき、実の親の身分が低いことを問題視する訴えに対し、養子になった以上、実の親の身分が卑しくても問題ないという認識が、「当然」とされている。厳格なる身分差も、養子になれば乗り越えられるということなのだろうか。
 それにしても、島津義久は一族や家臣の性格をよく把握している。家久の申し出には、理路整然と論破して却下しているし、川上久隅の地頭辞退の申し出については、「彼は真意と発言が異なる」と見切った上で、「伊東氏の戦いではもっとも頼りになるのはあなたですし、人衆(配下となる下級武士たち)が必要でしょう」とおだてて慰留している。こうした判断を、側近である覚兼が支えているのだろう。

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