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大淀地区の気になるポイント その2 [宮崎の史跡]

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こちらは、前回の古戦場跡から1.7kmほど北に位置する蓬莱山長久寺(宮崎市大塚町)。場所はここ↓

長久寺


この地は中世、日向国総田数の25%を占める宇佐宮領のひとつ、大墓別符(おおつかべっぷ)である。

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こちらは、大塚町の西に位置する大塚台団地から大墓別府を望んだ写真。少々写りが悪いが、右側に森のようにみえるのが、先程の長久寺の裏山にあたる。察しのいい人ならお気付きだろうが、中世の山城である。
土持文書(宮崎県総合博物館寄託)所収「田部姓土持氏系図」には、土持新兵衛尉宣栄の項に「建武二年宮崎大塚蓬莱山ニ居城ス」とあり、この蓬莱山が写真に見える長久寺の裏山と考えられている。
土持氏は、宇佐八幡宮(大分県宇佐市)の祀官四姓(宇佐・大神・田部・漆島)のひとつ田部氏の一流とされ、日向国内に分布する宇佐宮領の「封戸郷司」あるいは「封郡司」として入部し、中世後期に至るまで日向国を代表する在地豪族として各地に盤踞した。その一族は「土持七頭(党)」と呼ばれ、そのひとつが大塚土持氏。その南北朝期初頭の当主が新兵衛尉宣栄である。南北朝前期には多くの文書でその動向が確認でき、日向国大将・守護の畠山直顕の配下として各地を転戦し、建武4年(1337)5月には、畠山直顕から大墓別符地頭職に補任されている。蓬莱山を居城としたのはこの頃であろうが、おそらくそれ以前から大墓別符周辺の宇佐宮領は同氏の基盤だったのだろう。

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看板にもあるように、ここの本尊である木造六観音像は、室町末の作とされ市の有形文化財に指定されている。これ以外にも、永禄6年(1563)の銘の残る弘法大師蔵が、昨年、同じく市の有形文化財になっている。

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境内には古石塔がいくつかならぶが、これらは近世のもの。

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こちらの六地蔵塔は、天正16年(1588)の紀年銘が確認できる。まあ、明治4年(1871)に一度廃寺になったせいか、石塔の残り具合は芳しくない。

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蓬莱山の頂上には、西国八十八か所めぐりの仏像がならんでいるものの、樹木が鬱蒼としており、期待していた眺望はあまりよくなかった。

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それでも東側は木々の間から若干眺望が開けている。中央に見える橋は大淀川に架かる高松橋。
山城として機能していた頃は、眼下に大墓別符全域がひろがり、そこから大淀川河口にむけて一望できたのであろう。

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一方こちらは、長久寺から北北東400m弱に位置する大塚八幡神社。場所はここ↓

大塚八幡神社


宮崎県内にはやたらた八幡宮が多い。これは先述のように、日向国内各地に宇佐宮領が分布していたためで、各荘・別符の鎮守として八幡社が勧請され、宇佐宮支配の宗教的・政治的中核として機能したのであろう。
そう考えると、この大塚八幡神社から長久寺かけての地が大墓別符の中心地であることは間違いないだろう。

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この神社の由緒書。日向国内の宇佐宮領の成立は11世紀半ば以降とされるので、斉衡年間は眉唾[わーい(嬉しい顔)] ちなみに、土持景綱は土持氏系図にはよく出てくる名前だが、大塚土持氏の直系の先祖ではなく、財部(現在の高鍋町)を拠点とする財部土持氏の祖とされる人物。




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大淀地区の気になるポイント [宮崎の史跡]

きよたけ歴史館の企画展「宮崎の関ヶ原合戦 清武城主稲津掃部助の戦い」を見た帰り、宮崎市の大淀川右岸、大淀地区の気になるポイントを見て回る。

まずは昨年開通した、宮崎市大坪町と清武町加納を結ぶ国道269号線バイパス(通称加納バイパス)途中にみえる古石塔。場所はここ↓

正八幡神社


宮崎市大字恒久字諏訪だと思う。

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バイパスのすぐ西隣に鎮守の森のような光景。

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こちらが右側の神社。字名は諏訪だが、なぜか「正八幡宮」。

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こちらが神社のすぐ隣の古石塔群。左右にそびえる六地蔵塔が目立つ。

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下部には四方に種子(梵字)が刻まれている。

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よく見ると、「永正十八年辛巳三月廿一日」と紀年銘が確認できる。西暦1521年。宮崎平野全域が都於郡城主伊東尹祐の支配下に入っており、尹祐はこの前後には都城盆地に度々侵攻している。

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六地蔵塔の背後には、板碑や無縫塔が整然と並ぶ。右手前の無縫塔は銘からみて幕末の僧侶の墓。寺跡とみて間違いないだろう。これ以外のものもほとんど近世の年号のようだ。

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その背後には、大量の石塔類の残骸がうずたかく積まれている。おそらく、神社前のバイパス工事中に出土したものだろう。

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こちらは、石塔群から振り返った風景。バイパス背後に見える建物群は野崎病院。中世の山城である曽井城跡にたつ。室町から近世初頭にかけてたびたび史料に現れる城で、大淀川河口域南岸の要衝である。


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さてこちらは、さきほどの古石塔群から北西約1kmの距離にある花山手団地の標識。場所はここ↓

日柱合戦古戦場


ここ10年ほどで整備された新興住宅地なのだが、「合戦坂」に「能登坂」と、ずいぶんと歴史を感じさせる通り名である。
「合戦」とは、天文2年(1533)9月の日柱合戦のことで、「能登」とは、この合戦で討ち死にした「長倉能登守」のことである。長倉能登守は伊東家家臣で、前出の伊東尹祐没後の家督相続をめぐる紛争に巻き込まれ、伊東氏に反旗を翻してこの地で合戦に及び、討ち取られたのである。おそらくこのあたりの新しい住民達は、この標識の意味も分からず家を買ってしまったのだろう[がく~(落胆した顔)]

この団地を造成する際、長倉能登守の墓とされる板碑が発見された。墓の下からは比較的新しい時代の馬の骨が出土したらしく、発掘担当者は原因不明の発熱で苦しんだという。住宅地ということでこの板碑は現地保存されず、現在は蓮ヶ池史跡公園内の石塔のはらっぱで保存されている。写真はこれ↓
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発見時にはすでに二つにおれており、断面近くに「天文」の紀年銘が確認できる。墓台は、明治になって新興宗教団体がつくったもの。

この石塔の詳細を知りたい方は、甲斐亮典「『長倉能登守』の供養碑」(『森の風』5、1998年)をお読みになるか、みやざき歴史文化館にお問い合わせ下さい。

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