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『上井覚兼日記』天正2年(1574)8月11日~15日条 [上井覚兼日記]

十一日、いつものとおり出仕した。今朝、入来院殿(重豊)から申し入れがあり、護摩所にて奏者の本田野州(親貞)・伊地知勘解由(重秀)・拙者の三人で承った。入来からは東鄕美作・山口筑前が使者として参った。内容は、「前に申し上げたように、諸人が(入来院氏に)野心ありと訴えたところ、罪に問われるはずが、(義久の)一言のみで身上をお助けいただきました。その上、本領を安堵していただけるとのこと、恐れ入っております。御老中から内々に拝領地を返上するようにと命じられました。しかしながら、又々申し上げ、(本領である)清色以外に格護している山田・天辰・田崎・寄田(いずれも薩摩川内市川内川南岸)の四ヶ名(この四ヶ名は拝領したもの)を全て返上したい」とのこと。すぐに(義久に)披露した。(義久の)御意は、「この四ヶ名をすべて受け取ると、所領を取り上げたくて「一ヶ条」(野心の件)を持ち出したようにみられる。形だけにして、打ち替え(代替地)を与える」とのことであった。「よし田(寄田、薩摩川内市大字寄田)は、伯囿様(島津貴久)のご判断で、海辺を少し領知すべきであろうということで下された在所なので、領有は問題ない」とのことである。この日、入来院殿(重豊)が殿中に出仕した。
 この日、川辺・鹿児の相論について(八月八日・十日条)、地頭の(平田)新左衛門尉殿(宗張)は、まったく知らなかったとのことなので、これを左馬頭殿(島津忠長)に伝えるようにとのことであった。殿中において、左馬頭殿に申し入れたところ、(忠長は)「老中から(平田への)尋問でははっきりとしたことを言わず、ただ川辺に(盗まれた)馬や人が留められている。(鹿児に)帰すか、帰すべきではないのか、「御料理」(しっかり判断)していただきたい」とのこと。なんとも扱いづらいことだと、御老中たちが語っていた。
十二日、いつものとおり出仕した。入来院殿(重豊)の仮屋に、奏者三人が同心して返事を伝えに行った。その内容は「山田・田崎・天辰・寄田の四ヶ所を返上するとのこと、このまま召し上げてしまうと、(義久が)所領を望んでいるかのようにみえる。替地を与えるつもりであること。よした(寄田)は、今までどうり与える。血判のことは、急ぎ作成するように」とのこと。血判は、一両日中の鹿児島逗留中に提出するとの返事があった。
 この日、川辺・鹿児の相論について対応しようとしたが、小野(鹿児島市小野)での(義久の)的に左馬頭殿(島津忠長)がお供していたので、実施できなかった。
 この日、平佐(薩摩川内市平佐町)の石神坊が、下人のことについて冠嶽(いちき串木野市冠嶽)への書状を依頼されたのだが、失念していて老中に伝えなかった。
十三日、出仕しなかった。石神坊の下人についての書状を、冠嶽に送った。
十四日、いつものとおり出仕した。鹿児と川辺の相論について、(義久に)披露した。同時に、新納武州(忠元、元奏者・大口地頭)と鎌田尾州(政年、牛根地頭)に相談した。「鹿児側から、盗品の馬と人が川辺に留められており、しきりに返却するよう求めているのだが、どうすべきだろうか」とこの二人に相談したところ、「盗人を射殺した上は、たとえ盗品が目の前にあったとしても帰す必要は無い。ましてや、盗品が無いのならば判断する必要がないにもかかわらず、左馬頭殿(忠長)が何が何でも返却を求めるのは、無理がある」とのこと。この二人の意見を(義久に)披露して、また左馬頭殿にも伝えたのだが、先日と同じ御返事であった。
 この日、川辺・鹿児の相論を伊地知重秀と拙者とで(義久の)御前で披露したところ、ついでに上意があった。平田宮内少輔が牛根(垂水市牛根麓)への移動(召移)が決まっていたが、彼の親である安房介は、伯囿様(島津貴久)に毒を盛ったとの話が、事実かどうか不明であるが、下々では噂されている。そうした状況で、彼を宮内少輔を牛根に召移し、少しであっても扶持を与えた場合、諸人(世間)は、(義久が)親の受けた仕打ちを忘れてしまったのかなどと判断しては困るので、彼の召移は認めない、とのことであった。
十五日、いつものとおり出仕した。川上上野守殿(久隅)が藺牟田地頭役辞任の意向を示した。なんどもなおも(地頭役を)お願いしたいと(義久は)仰った。伊集院右衛門兵衛尉殿(久治、奏者ヵ)・拙者が使いとなった。(川上久隅の)返事には、「川上名字でこのような役(地頭)をつとめることは、前代未聞のことである。合戦の時は、なんとしてでも御奉公するつもりだが、いまは太平になったので、なんとか辞めさせて欲しい」と、強く仰った。

(補足・解説)
 入来院重豊の一件は、本領の清色(薩摩川内市入来町浦之名・副田)以外に拝領していた、山田(薩摩川内市永利町)・天辰(同市天辰町)・田崎(同市田崎町)・寄田(同市大字寄田)を返上することで決着したようである。これに対し、義久は、父貴久が特に宛行った東シナ海沿岸部の寄田を除き、返上を受け入れている。
 川辺地頭平田宗張と鹿児領主島津忠長の、盗人殺害・盗品返還をめぐる相論は、長期化し、かつて奏者などをつとめた新納忠元(1526~1611、49歳)、鎌田政年(1514~1583、61歳)ふたりの老臣を引っ張り出して、判例を尋ねている。窃盗事件の場合、盗人を殺害すれば、盗品は返却する必要はないというのが二人の見解であり、それで忠長を説得しようとしているが、若き忠長は納得出来ないようである。
 15日条の、川上久隅地頭職辞職願は、有名なエピソードである。川上氏は、島津本宗家5代貞久の庶長子頼久を祖とする御一家であり、かなりプライドが高い。地頭は、島津氏被官がつとめる役であり、御一家たる川上氏がつとめる役ではないというのが、辞職理由である。実際は、御一家であっても、樺山氏や喜入氏など地頭を兼務するケースは既にあり、久隅のわがままのようにも思えるが、久隅の父昌久は、島津奥州家勝久を失脚させるきっかけを作り、誅殺された人物であり、久隅自身も軍事指揮にかけては大きな功績を残している重鎮である。義久としては対応に苦慮したであろう。

『上井覚兼日記』天正2年(1574)8月6日~10日条 [上井覚兼日記]

天正2年(1574)8月
六日、天満宮(現在の菅原神社ヵ、薩摩川内市国分寺町)仮殿が廃壊した。合戦にめでたく勝利したので、前代のように宝殿の造立を、国分筑前守(定友)みずから御内に参上して陳情した。あわせて、前代の棟札・切符(寄進状の類ヵ)を持参した。(義久の)返事は、「陳状の件は一々聞き届けた。新田宮造立を企画したが、これでさえ未だ成就していない。現時点では(天満宮造営は)難しい。追っていずれ談合するであろう」とのことで、(国分を)帰された。同社の権宮司もお目に掛けた。中折(半紙の一種)一束を進上した。国分殿は、お茶を進上した。
 この日、伊地知殿(重興、大隅国下大隅国衆、この年島津氏に降伏して出家していた模様)が還俗した。太刀一腰・鳥目(銅銭)三百疋を進上した。拙者が受け取り、(重興は)周防守に任じられた。
七日、新田宮の執印殿・千儀坊が同心して、権執印・座主に対して訴えを起こし、御内に参上した。座主・権執印を召喚するということで、二人はしばらく鹿児島に逗留するとのこと。
 この日、肝付(兼亮)からの使者薬丸弾正忠(兼持)が鷲羽を一尻持参して、拙宿に来た。いつものとおり、酒でもてなす。
八日、いつものとおり出仕した。入来院殿(重豊)に先月命じられた件についての、(入来院側からの)返事があった。(奏者の)本田下野守殿(親貞)・伊地知勘解殿(重秀)・拙者の三人で承った。入来院側からは入来院殿(重豊)・山口筑前守(重秋)・東鄕美作守が意見を申した。(御内の)護摩所にて承った。その内容は、「先月祗候の際、(島津氏に対し)野心があるのでは無いかと疑念を持たれたが、(義久の)御一言のみで身上(国衆としての地位)を保全され、もったいなくありがたい」とのこと。「そこで、諸人(ほかの国衆たち)が、野心のある者と肩をならべることはできないと仰っているのだろうか。(入来院氏としても)諸人から認めてもらえるようわきまえるつもりだ」とのこと。もっともなことである。それにつき、「拝領の所領を進上したいと思う。(奏者から)御老中のどなたかにお取り次ぎをお願いしたい」とのこと。そこで、老中の村田殿(経定)・平田殿(昌宗)に取り次ぎ、(義久の)御前に披露するとのことであったが、(義久の)ご機嫌がよくなかったので、披露はしなかった。
 河辺(南九州市川辺町、地頭平田宗張)と鹿児(枕崎市、島津忠長領)に相論がおきた。左馬頭殿(忠長)の意向を確認すべく、老中の使者として、伊地知勘解由殿(重秀)と拙者が一昨夜(八月六日夜)、(忠長の鹿児島仮屋に)参上した。ご意見を腹蔵なくおうかいがいしたいと申したのだが、ご本人は姿を見せなかった。ご意向としては「川辺にて、盗人孫左衛門が射殺された。その家(盗人が入った被害者宅ヵ)には、ただ夫婦だけがいたのではない。どのような事情があったにせよ、その治所(鹿児)にて処分すべきであったものを」とのこと。「盗んだ馬・人が既に無いとしても、代物を引き渡すべきであるが、老中がそれを承服しないのは、不満である」とのこと。この意向を、川辺の使者金田殿・折田殿両人に尋ねたところ、まったくそんなことは聞いていないとのこと。それから、(地頭の)平田新左衛門尉殿(宗張)が(御内から)下城されていたところを、南林寺・興国寺などの門前まで追いかけて、「左馬頭殿(忠長)が鹿児島に逗留中に相論は決着するでしょう」と伝えて、両使は早朝帰した。
 この日、相手組御的(八月五日)の返報(平田宗応が亭主の的ヵ)。
九日、いつものとおり出仕した。(浄)光明寺(其阿西嶽)が肝付にいくことになり、(義久の)御用があるだろうと(御内の)殿中に出仕された。拙者が御使(取次)をつとめた。義久から肝付氏への意向は、「庄内(北郷時久)と肝付(兼亮)の和睦をたびたび命じていた。庄内からは肝付氏に対し所領の割譲を求め、肝付はそれを拒否している。このため和睦交渉が難航している。このままではまずいので、義久から庄内に対し、手をいれ(妥協を求め)和睦実現を図りたい。道場(其阿西嶽)が肝付に逗留中に、庄内に使僧を派遣し、互いに面会するよう命じる」とのことであった。浄光明寺は領掌し、肝付へと向かった。
 この日、未刻(午後二時頃)、平佐(地頭野村秀綱)から書状が到来。内容は、「中郷(薩摩川内市中郷付近)へ東鄕勢二・三百ほどが攻め入り、(薩州家義虎が配置した)中郷地頭烏丸紀伊介を追い出した。結果的に僧一人・俗人三人が射殺されたようである」とのこと。返事には、「いただいた情報は、御老中に披露した。今後もそちらの状況を調査し、適宜ご注進されるのが大事だ」と記した。
 この日、肝付使者(薬丸兼持、八月七日条)の宿舎に、伊地知勘解由(重秀)と同心して御礼に行った。老中伊集院右衛門大夫(忠棟)のところに行っており、留守だった。
十日、いつものとおり出仕した。入来院殿(重豊)の申し出(八月八日条)を、奏者三人(本田親貞・伊地知重秀・覚兼)一緒に(義久に)披露した。「一両日中に御談合衆が集まるので、老中が対応を相談するのがいいだろう」との上意であった。「ただ、所領をどれだけといって召し上げると、所領が欲しくて(野心の風聞を)言い出したように見える。十町を形だけ召し上げた上で、別の場所に十町繰替地を与えるのがいいだろう」との御意であった。神判(起請文)は、これまた文言を談議所(大乗院盛久)に起草を命じられた。ただ、「入来院との分別以」(入来院氏の対応を見てという意ヵ)臨機応変に対応するようにとのこと。また、入来院氏の年行共(家老ヵ)や、萩野采女という者など、両氏の間で馳せ回った連中も、それぞれ神判・血判を提出させるべきである、との仰せであった。
 昨日、平佐(地頭野村秀綱)から到来した書状を、今朝義久のお目にかけた。
 この日、鹿児と川辺の相論(八月八日条)について、今泉寺(南さつま市加世田川畑)の代理として、川辺の等持坊が参上した。伊地知勘解由左衛門尉殿(重秀)と参会し、意向を聞いた。左馬頭殿(鹿児領主島津忠長)の主張について、金田殿・折田殿から事情を聞いたところ、地頭の平田新左衛門尉殿(宗張)は全く知らないとのことで、興国寺門前まで来て(いざとなった寺入するということヵ)、このたびの事態について老中に取りなしを依頼した、とのことである。

(補足・解説)
 6日条の伊地知重興は、大隅国下大隅(垂水市)の国衆。永禄4年(1561)以来、同国高山の国衆肝付氏と連携して島津氏に抵抗してきたが、この年、とうとう島津氏に降伏した。降伏後、出家して謹慎していたのであろうが、義久の許しを得て還俗したということであろう。あわせて「周防守」に任じられているが、これは同氏の当主代々の受領名であり、国衆伊地知氏の存続を認めたことを意味する。
 8日や意味が取りづらい。7月に国衆入来院重豊(?~1583)に野心の風聞がのぼり、このため八朔での順位が問題になったようである。入来院氏から所領献上を申し出て手打ちとなったようであるが、10日条での義久の対応が面白い。所領が欲しくて野心の噂を立てたと思われるのはなんだから、10町献上させて、別に10町与えるとの意向。「外聞」をやたらと気にする義久の性格というか、島津家の家風が出ている。
 4日条でも話題に上った、東鄕重尚と島津薩州家義虎の所領相論は、9日条によると東郷氏による武力侵攻という事態に発展している。現在の薩摩川内市の中心部、川内川北岸は16世紀初頭から東郷氏の所領であり、薩州家との抗争が続いていた。元亀元年(1570)、東郷氏は入来院氏とともに島津氏に降伏して、この地域を返上し、薩州家義虎領となった。従属国衆どうしの武力紛争にたいし、島津本宗家がすぐには介入せず、情報収集を指示するのみなのが面白い。
 一方で、9日条によると、肝付氏と北郷氏の和睦仲介に義久が乗り出したことがうかがえる。肝付兼亮(1558~1634)は、伊地知氏ともにこの年、ようやく島津氏に降伏し、肝属郡を安堵されたとみられる。しかし、所領紛争は続いており、島津本宗家と対等に近い同盟関係にある御一家北郷時久は、肝付氏に所領を割譲を求め、いまだ和睦が成立していない。義久は、ともに肝付氏と戦ってきた盟友北郷氏に譲歩を求めると言っているが、果たしてどうなるのか?

『上井覚兼日記』天正2年(1574)8月1日~5日条 [上井覚兼日記]

長年放置していたこのブログですが、気が向いたので、『上井覚兼日記』の現代語訳を連載することにしました。
暇な時にだけ、ちょくちょく追加していきます。
底本は、『大日本古記録 上井覚兼日記』(岩波書店)。ほとんどが、東京大学史料編纂所蔵の覚兼自筆本ですが、一部欠本を都城島津家史料本で補っているようです。

まずは、天正2年(1574)8月1日~5日条。この年、覚兼は30歳。島津本宗家当主義久の奏者で、薩摩国永吉(鹿児島県日置市吹上町永吉)の地頭を兼務。基本、鹿児島の義久居城である「御内」(内城、鹿児島市大竜町)付近の仮屋に常駐し、御内に祗候している時期です。


一日、恒例どおり。太刀一腰・青銅(銅銭)百疋を(義久に)進上した。(義久からの)御返礼として、太刀一腰・弓一張を下賜された。
 今朝、入来院重豊殿(薩摩国入来院国衆)、太刀を東鄕重尚(薩摩国東鄕国衆)の次に献上するよう、(義久が)仰った。御老中からは、「東鄕・祁答院・入来院の三家は同家なので、東鄕の次には根占(祢寝重長)殿の太刀をお受けになるべきである」と、強く申し入れがあった。入来からの使者村尾蔵人が申すには、「若輩でありますので、罷り帰り、入来院弾正忠(重豊)に相談の上、後日対応を決めたい」とのことであった。考え直すように伝え、「その家(渋谷一族)が誰か一人諸人の上(トップ)をつとめたならば、庶子は誰の次に献上したとしても、問題ない」と(老中は?)仰ったのだが、かの使者(村尾)は納得せず、同意の返事さえせず退出した。かの使者の介添えは、本田因幡守親治と拙者がつとめた。
 この日、拙者は、御一家・国衆の奏者を担当した。
 この日の晩、旧例のように、一王大夫(河野通貞)が(御内=義久居城)殿中にて、式三番をおこなった。各々片衣を脱いでおこなった。拙者は、「通之衆」を承り、銭十疋を請け取った。
二日、早晩に出仕した。平佐地頭(野村秀綱)から、衆中二・三人をどこかに召し移して欲しいとの申し出有り。「平佐は国境なので、なお人数を多く配置しておくべきであるので、衆中をよそへ移す件は許可しない」と仰ったので、その通り伝え、(野村)は帰って行った。
 この日、上原長門守(尚近、日向飫肥地頭・奏者)に相談した。吉利(日置市日吉町)と野頸原(日置市吹上町永吉)とで、畠地について六月頃から相論がおきている。それについて、役人二人が、御老中の意見(答申)により召し放たれてしまった。これをどうするからについて、以前から(義久への)取りなしを(上原に)お願いしていたので、(義久の)内々の意向をうかがった。すると、伊集院右衛門大夫(忠棟)殿に相談し、五日前に吉利に(役人を)召し直すよう命じられたので、きっと元に戻っているだろうとのことであった。いまだ復帰していない旨申したところ、 そのうち御的について、(義久が)書状を送るので、その袖書きに早々に召し直すようお命じになるとのことであった。
三日、いつものとおり出仕した。鎌田外記(政心)殿・鐘林庵・松山隠岐守殿・有屋田名字の人、この四人が同心して(御内に)参上した。鐘林庵は、無住の小庵があればご下賜いただきたいと訴え、空きが出来次第遣わすとの(義久の)回答を得て帰って行った。有屋田殿は、蒲生への移動希望であった。伊集院右衛門大夫(忠棟)殿にこの旨を伝えたところ、蒲生に所領の空きは出来ないだろうとのことだったので、その旨伝えて帰した。
四日、出仕しなかった。この日は、喜入(季久)殿の御仮屋にて、寄合中(老中)が揃って談合。川内(薩摩川内市中郷付近)から水引(同市水引町、島津薩州家義虎領)に対し、火を立てる(攻撃をしかける)旨、東鄕重尚の連絡はなかったかと、(老中から拙者に)お尋ねがあった。まったくそのような話は知らない旨申し上げた。あるいは、白浜周防介殿(重政、東郷氏庶流)なら知っているかもしれないということになり、我等(奏者)から尋ねたが、彼も聞いていないとのことであった。
五日、相手組の弓矢があった(対戦形式の弓競技?)。平田平二郎殿殿(宗応)が相手であった。この日は拙者が亭主をつとめた。
 この日、殿中において、上原長州(尚近)に相談した。吉利忠澄と相論となり役人共が召し放ちとなった件。吉利忠澄から何も連絡がないので、このまま彼らを召し使ってはならないということでもないだろうから、見参(その役人を引見=再雇用)する旨、(義久に対し上原を通じて)届け出た。吉利からいままで異議申し立てが無いのなら、早々に見参するのがいいだろうとのご回答だったので、彼らを召し寄せ再び役人を申しつけた。
 この日は、大酒を飲んだので、後日のために、瀧聞宗運(奏者)に上原長門守への返事を依頼した。

(解説・補足)
 基本、覚兼がつとめる「奏者」とは、島津本宗家当主義久と、老中(近世の家老)以下家臣や国衆、寺社との「取次」を担う役職です。義久の側近です。
 この期間も、贈答品をやりとりする「八朔」の儀式において、当主義久と御一家(島津氏一門・庶子家)・国衆(非島津氏の有力領主)の取次を担当しています。プライドの高い入来院氏の使者が、贈り物を義久に献上する順番について、祢寝氏の次になったことを承服せず、帰ってしまったようです。それは、伊集院忠棟ら老中の指示だったようですが、使者への応対は覚兼ら奏者の役割であり、とりなしに苦労しているようです。
 2日・3日条からうかがえるように、領内各地の要所に配置された「外城」を所管する地頭や、その地頭配下の「衆中」の移動希望、坊主の寺が欲しいのとの訴えも、覚兼ら奏者が、義久や老中に取り次いでいます。
 ただ、2日・5日条からうかがえるように、みずからが紛争当事者になった場合は、自分では義久・老中に上申できず、同じく奏者の上原尚近に取次を依頼しています。

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