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『上井覚兼日記』天正2年(1574)8月21日~29日 [上井覚兼日記]

一週間ぶりの更新です。

二十一日、御老中にお暇申し上げて、(自分が地頭をつとめる)長吉(日置市吹上町永吉)に向かった。
二十二日、拙者が留守中に、川上久隅殿が藺牟田地頭役辞退の件について、義久からの命を伝える役を、伊地知右衛門兵衛(久治)殿がひとりでつとめたとのこと。二人で先日使者をつとめたので、その結果を伝えてもらった。
二十四日、この日、午刻(十二時頃)鹿児島に戻った。それから、平田濃州(昌宗)のところに参り、談儀所にもご挨拶した。その座に参ったついでに、(談儀所から)新田宮衆へ意見(和解勧告)をしたが(八月七日・十八日・二十日条)、受け入れられなかったと承った。
二十五日、月例の連歌会に参加した。座は護摩所であった。貴殿様(義久)・不断光院が同席した。拙者は、五句詠んだ。
二十六日、いつものとおり出仕した。新田宮衆の相論の件(八月七日・十八日・二十日・二十四日条)を、御老中に伝えた。摂州(喜入季久)・意鈞(川上忠克)・伊集院大夫(忠棟)・村田越州(経定)・平田濃州(昌宗)皆々そろって御談合。「現在、新田宮は「御柴中」なので、今回は帰宅させ、「柴」が過ぎてから採決を出す」と伝えるようにとのことだったので、先日来の使者三人で、執印殿・千儀坊に対し、諏訪座主坊において伝えた。なんとか今回で終結させたいとの意向であったが、今後とも御老中にお頼りする立場なので、とにかく御意に従うとのこと。「柴」が過ぎたら、必ず御採決いただくようお願いしたいとのこと。安養院(諏訪社別当寺)もご意見(和解勧告)されたようであり、御老中の村田殿にこの旨報告した。もっとなことであるとのことであった。座主・権執印に対しても、明朝にこの旨伝えるようにとの仰せであった。
 この日、平佐地頭(野村秀綱)から使者大坊が参った。内容は、「入来院(重豊)殿が山田・天辰・田崎を返上されたと聞き及んだ。平佐には、しっかりとした門(かど)が付いていないので、城誘・普請などが出来ないでいる。天辰・田崎を平佐に付けてほしい。先に誰も希望する人がいないうちに、ということで申し出た」とのこと。
二十七日、虫が悪くて(虫気=内蔵系の疾患)、出仕しなかった。昨日、村田(経平)殿が、平佐からの要望を寄合中に披露した。今朝、使僧(大坊)と同心して殿中に参上しよう考えていたが、虫気が出たので、使僧だけで殿中に参上するよう伝えて、本田下野守(親貞)殿に引き継いだ。拙者の忰者が大坊の案内者をつとめた。しかし、事情を聞かないで、また大坊は拙者に(取次を)頼みたいとのことなので、同心して酉刻(午後六時頃)に殿中に出仕した。(足利義昭からの)上使江月斎が、今日(義久と)会見していた。そのときに出仕していた老中衆が皆同席したので、(平佐の件を)披露した。山田・天辰・田崎の事は、特に談合しているので、(要望に応えることは)難しいとの返事であった。
 この日、座主・権執印に返事をして、(新田宮に)帰らせた。
二十八日、いつものとおり出仕した。今日は、能の日であった。支度をして日中に伺うよう命じられて、帰宅した。
二十九日、いつものとおり出仕した。国分筑前守(定友)殿から書状をいただいた。御老中にお目にかけて、返事出すよう命じられたので、返書を書いた。その内容は、「天満宮(現菅原神社、薩摩川内市国分寺町)御宝殿が大破したとのこと。特に、ご神体が雨露にさらされているとのこと、とんでもないことである。しかしながら、今は以前のような宝殿を作ることは出来ない。なぜなら、新田宮が先に修繕計画をたてているが、それもいまだ出来ていない。まずは、茅葺きの仮殿をつくるのがいいだろう。これくらいのことなら、国分殿の判断でできるのではないか、ということを老中から伝えるよう命じられた」と返事に書いた。
 この日、鎌田図書助(政近)殿(向島・大隅新城地頭)が仰るには、「このたび、新城(垂水市新城)に参り、〝役所配〟(新たな衆中への知行宛行ヵ)をおこなった。現在、三十か所ほどあるが、さらに移衆を命じてほしい。次に、向島(桜島)に材木調進を命じられたが、明日から三十日間、向島は〝柴〟である。その間、(材木調進は)難しい。特に、〝すの板〟十枚ずつということであるが、一度に準備するのは難しい。少しずつ調進したい。向島でこれほどの材木を準備するのは、すべて神木なので(難しい)。下々の者は、船木などをとる必要があり、それぞれ苦労して社人(大隅正八幡宮の社家ヵ)と談合している。御材木(島津氏から調進を命じられた材木という意味か)とはいえ、これを伐採するのは恐れ多いというので、向島の役人二人を連れてきた」とのことである。御老中の返事には、「新城移衆の事は、まず書状にて詳しく承っており、談合の最中である。次に向島の神木については、必ず神木を伐採せよとこちらから命じたことはなく、ただ、島に賦課した〝天役〟にすぎない。山がない在所であっても、公役であるのでこのような賦課も応じている。その在所在所の判断で、材木を調達すればよい。こちら(老中)としては、(どのように調達するかは)知ったことではない」とのことであった。
 この日、税所新介(篤和)殿から伊集院右金吾(久治)殿に対し、内々に申し出があり、「今ちょうど移替の時期なので、青江江兵衛を伊集院(日置市伊集院町)に召移すよう、伊集院大夫(忠棟)殿に頼んでほしい」とのこと。返事には、「そのように取り次ぎます。ただ、内々に(義久の)上意を得てから追って伝えます」と申した。

(補足・解説)
 21日から二泊三日で、地頭を兼務する永吉に行っているが、なぜか日記には記していない。プライベートな所用だったのか。なお、天正2年(1574)段階の日記には、公務が中心で、個人的なことはあまり記されていない。宮崎時代の天正10年(1582)以降の記述とは対照的である。
 新田宮での相論は、「柴」を理由に裁決が先延ばしになっているが、「柴」がなにか分からない。29日条にも、「柴」が登場しており、新田宮だけでの問題でも無さそうである。
 なお、現在の桜島は全域が溶岩で覆われており、あまり材木に適した森はなさそうだが、当時はそれなりにあったようで、29日条には「神木」とある。大隅正八幡宮(現在の鹿児島神宮)は、もともと桜島を御神体としていたようなので、この「神木」とは、正八幡宮の神木という意味であろう。
 27日条によると、この時期、将軍足利義昭の上使江月斎が下向してきていることがうかがえる。覚兼は担当奏者ではなかったようで、詳細を記していない。前年7月、足利義昭は敵対していた織田信長から追放され、この頃は、紀伊国興国寺に滞在中だったようで。この上使は、島津氏への経済的支援を要請したのであろう。

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