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『上井覚兼日記』天正2年(1574)8月6日~10日条 [上井覚兼日記]

天正2年(1574)8月
六日、天満宮(現在の菅原神社ヵ、薩摩川内市国分寺町)仮殿が廃壊した。合戦にめでたく勝利したので、前代のように宝殿の造立を、国分筑前守(定友)みずから御内に参上して陳情した。あわせて、前代の棟札・切符(寄進状の類ヵ)を持参した。(義久の)返事は、「陳状の件は一々聞き届けた。新田宮造立を企画したが、これでさえ未だ成就していない。現時点では(天満宮造営は)難しい。追っていずれ談合するであろう」とのことで、(国分を)帰された。同社の権宮司もお目に掛けた。中折(半紙の一種)一束を進上した。国分殿は、お茶を進上した。
 この日、伊地知殿(重興、大隅国下大隅国衆、この年島津氏に降伏して出家していた模様)が還俗した。太刀一腰・鳥目(銅銭)三百疋を進上した。拙者が受け取り、(重興は)周防守に任じられた。
七日、新田宮の執印殿・千儀坊が同心して、権執印・座主に対して訴えを起こし、御内に参上した。座主・権執印を召喚するということで、二人はしばらく鹿児島に逗留するとのこと。
 この日、肝付(兼亮)からの使者薬丸弾正忠(兼持)が鷲羽を一尻持参して、拙宿に来た。いつものとおり、酒でもてなす。
八日、いつものとおり出仕した。入来院殿(重豊)に先月命じられた件についての、(入来院側からの)返事があった。(奏者の)本田下野守殿(親貞)・伊地知勘解殿(重秀)・拙者の三人で承った。入来院側からは入来院殿(重豊)・山口筑前守(重秋)・東鄕美作守が意見を申した。(御内の)護摩所にて承った。その内容は、「先月祗候の際、(島津氏に対し)野心があるのでは無いかと疑念を持たれたが、(義久の)御一言のみで身上(国衆としての地位)を保全され、もったいなくありがたい」とのこと。「そこで、諸人(ほかの国衆たち)が、野心のある者と肩をならべることはできないと仰っているのだろうか。(入来院氏としても)諸人から認めてもらえるようわきまえるつもりだ」とのこと。もっともなことである。それにつき、「拝領の所領を進上したいと思う。(奏者から)御老中のどなたかにお取り次ぎをお願いしたい」とのこと。そこで、老中の村田殿(経定)・平田殿(昌宗)に取り次ぎ、(義久の)御前に披露するとのことであったが、(義久の)ご機嫌がよくなかったので、披露はしなかった。
 河辺(南九州市川辺町、地頭平田宗張)と鹿児(枕崎市、島津忠長領)に相論がおきた。左馬頭殿(忠長)の意向を確認すべく、老中の使者として、伊地知勘解由殿(重秀)と拙者が一昨夜(八月六日夜)、(忠長の鹿児島仮屋に)参上した。ご意見を腹蔵なくおうかいがいしたいと申したのだが、ご本人は姿を見せなかった。ご意向としては「川辺にて、盗人孫左衛門が射殺された。その家(盗人が入った被害者宅ヵ)には、ただ夫婦だけがいたのではない。どのような事情があったにせよ、その治所(鹿児)にて処分すべきであったものを」とのこと。「盗んだ馬・人が既に無いとしても、代物を引き渡すべきであるが、老中がそれを承服しないのは、不満である」とのこと。この意向を、川辺の使者金田殿・折田殿両人に尋ねたところ、まったくそんなことは聞いていないとのこと。それから、(地頭の)平田新左衛門尉殿(宗張)が(御内から)下城されていたところを、南林寺・興国寺などの門前まで追いかけて、「左馬頭殿(忠長)が鹿児島に逗留中に相論は決着するでしょう」と伝えて、両使は早朝帰した。
 この日、相手組御的(八月五日)の返報(平田宗応が亭主の的ヵ)。
九日、いつものとおり出仕した。(浄)光明寺(其阿西嶽)が肝付にいくことになり、(義久の)御用があるだろうと(御内の)殿中に出仕された。拙者が御使(取次)をつとめた。義久から肝付氏への意向は、「庄内(北郷時久)と肝付(兼亮)の和睦をたびたび命じていた。庄内からは肝付氏に対し所領の割譲を求め、肝付はそれを拒否している。このため和睦交渉が難航している。このままではまずいので、義久から庄内に対し、手をいれ(妥協を求め)和睦実現を図りたい。道場(其阿西嶽)が肝付に逗留中に、庄内に使僧を派遣し、互いに面会するよう命じる」とのことであった。浄光明寺は領掌し、肝付へと向かった。
 この日、未刻(午後二時頃)、平佐(地頭野村秀綱)から書状が到来。内容は、「中郷(薩摩川内市中郷付近)へ東鄕勢二・三百ほどが攻め入り、(薩州家義虎が配置した)中郷地頭烏丸紀伊介を追い出した。結果的に僧一人・俗人三人が射殺されたようである」とのこと。返事には、「いただいた情報は、御老中に披露した。今後もそちらの状況を調査し、適宜ご注進されるのが大事だ」と記した。
 この日、肝付使者(薬丸兼持、八月七日条)の宿舎に、伊地知勘解由(重秀)と同心して御礼に行った。老中伊集院右衛門大夫(忠棟)のところに行っており、留守だった。
十日、いつものとおり出仕した。入来院殿(重豊)の申し出(八月八日条)を、奏者三人(本田親貞・伊地知重秀・覚兼)一緒に(義久に)披露した。「一両日中に御談合衆が集まるので、老中が対応を相談するのがいいだろう」との上意であった。「ただ、所領をどれだけといって召し上げると、所領が欲しくて(野心の風聞を)言い出したように見える。十町を形だけ召し上げた上で、別の場所に十町繰替地を与えるのがいいだろう」との御意であった。神判(起請文)は、これまた文言を談議所(大乗院盛久)に起草を命じられた。ただ、「入来院との分別以」(入来院氏の対応を見てという意ヵ)臨機応変に対応するようにとのこと。また、入来院氏の年行共(家老ヵ)や、萩野采女という者など、両氏の間で馳せ回った連中も、それぞれ神判・血判を提出させるべきである、との仰せであった。
 昨日、平佐(地頭野村秀綱)から到来した書状を、今朝義久のお目にかけた。
 この日、鹿児と川辺の相論(八月八日条)について、今泉寺(南さつま市加世田川畑)の代理として、川辺の等持坊が参上した。伊地知勘解由左衛門尉殿(重秀)と参会し、意向を聞いた。左馬頭殿(鹿児領主島津忠長)の主張について、金田殿・折田殿から事情を聞いたところ、地頭の平田新左衛門尉殿(宗張)は全く知らないとのことで、興国寺門前まで来て(いざとなった寺入するということヵ)、このたびの事態について老中に取りなしを依頼した、とのことである。

(補足・解説)
 6日条の伊地知重興は、大隅国下大隅(垂水市)の国衆。永禄4年(1561)以来、同国高山の国衆肝付氏と連携して島津氏に抵抗してきたが、この年、とうとう島津氏に降伏した。降伏後、出家して謹慎していたのであろうが、義久の許しを得て還俗したということであろう。あわせて「周防守」に任じられているが、これは同氏の当主代々の受領名であり、国衆伊地知氏の存続を認めたことを意味する。
 8日や意味が取りづらい。7月に国衆入来院重豊(?~1583)に野心の風聞がのぼり、このため八朔での順位が問題になったようである。入来院氏から所領献上を申し出て手打ちとなったようであるが、10日条での義久の対応が面白い。所領が欲しくて野心の噂を立てたと思われるのはなんだから、10町献上させて、別に10町与えるとの意向。「外聞」をやたらと気にする義久の性格というか、島津家の家風が出ている。
 4日条でも話題に上った、東鄕重尚と島津薩州家義虎の所領相論は、9日条によると東郷氏による武力侵攻という事態に発展している。現在の薩摩川内市の中心部、川内川北岸は16世紀初頭から東郷氏の所領であり、薩州家との抗争が続いていた。元亀元年(1570)、東郷氏は入来院氏とともに島津氏に降伏して、この地域を返上し、薩州家義虎領となった。従属国衆どうしの武力紛争にたいし、島津本宗家がすぐには介入せず、情報収集を指示するのみなのが面白い。
 一方で、9日条によると、肝付氏と北郷氏の和睦仲介に義久が乗り出したことがうかがえる。肝付兼亮(1558~1634)は、伊地知氏ともにこの年、ようやく島津氏に降伏し、肝属郡を安堵されたとみられる。しかし、所領紛争は続いており、島津本宗家と対等に近い同盟関係にある御一家北郷時久は、肝付氏に所領を割譲を求め、いまだ和睦が成立していない。義久は、ともに肝付氏と戦ってきた盟友北郷氏に譲歩を求めると言っているが、果たしてどうなるのか?

『上井覚兼日記』天正2年(1574)8月1日~5日条 [上井覚兼日記]

長年放置していたこのブログですが、気が向いたので、『上井覚兼日記』の現代語訳を連載することにしました。
暇な時にだけ、ちょくちょく追加していきます。
底本は、『大日本古記録 上井覚兼日記』(岩波書店)。ほとんどが、東京大学史料編纂所蔵の覚兼自筆本ですが、一部欠本を都城島津家史料本で補っているようです。

まずは、天正2年(1574)8月1日~5日条。この年、覚兼は30歳。島津本宗家当主義久の奏者で、薩摩国永吉(鹿児島県日置市吹上町永吉)の地頭を兼務。基本、鹿児島の義久居城である「御内」(内城、鹿児島市大竜町)付近の仮屋に常駐し、御内に祗候している時期です。


一日、恒例どおり。太刀一腰・青銅(銅銭)百疋を(義久に)進上した。(義久からの)御返礼として、太刀一腰・弓一張を下賜された。
 今朝、入来院重豊殿(薩摩国入来院国衆)、太刀を東鄕重尚(薩摩国東鄕国衆)の次に献上するよう、(義久が)仰った。御老中からは、「東鄕・祁答院・入来院の三家は同家なので、東鄕の次には根占(祢寝重長)殿の太刀をお受けになるべきである」と、強く申し入れがあった。入来からの使者村尾蔵人が申すには、「若輩でありますので、罷り帰り、入来院弾正忠(重豊)に相談の上、後日対応を決めたい」とのことであった。考え直すように伝え、「その家(渋谷一族)が誰か一人諸人の上(トップ)をつとめたならば、庶子は誰の次に献上したとしても、問題ない」と(老中は?)仰ったのだが、かの使者(村尾)は納得せず、同意の返事さえせず退出した。かの使者の介添えは、本田因幡守親治と拙者がつとめた。
 この日、拙者は、御一家・国衆の奏者を担当した。
 この日の晩、旧例のように、一王大夫(河野通貞)が(御内=義久居城)殿中にて、式三番をおこなった。各々片衣を脱いでおこなった。拙者は、「通之衆」を承り、銭十疋を請け取った。
二日、早晩に出仕した。平佐地頭(野村秀綱)から、衆中二・三人をどこかに召し移して欲しいとの申し出有り。「平佐は国境なので、なお人数を多く配置しておくべきであるので、衆中をよそへ移す件は許可しない」と仰ったので、その通り伝え、(野村)は帰って行った。
 この日、上原長門守(尚近、日向飫肥地頭・奏者)に相談した。吉利(日置市日吉町)と野頸原(日置市吹上町永吉)とで、畠地について六月頃から相論がおきている。それについて、役人二人が、御老中の意見(答申)により召し放たれてしまった。これをどうするからについて、以前から(義久への)取りなしを(上原に)お願いしていたので、(義久の)内々の意向をうかがった。すると、伊集院右衛門大夫(忠棟)殿に相談し、五日前に吉利に(役人を)召し直すよう命じられたので、きっと元に戻っているだろうとのことであった。いまだ復帰していない旨申したところ、 そのうち御的について、(義久が)書状を送るので、その袖書きに早々に召し直すようお命じになるとのことであった。
三日、いつものとおり出仕した。鎌田外記(政心)殿・鐘林庵・松山隠岐守殿・有屋田名字の人、この四人が同心して(御内に)参上した。鐘林庵は、無住の小庵があればご下賜いただきたいと訴え、空きが出来次第遣わすとの(義久の)回答を得て帰って行った。有屋田殿は、蒲生への移動希望であった。伊集院右衛門大夫(忠棟)殿にこの旨を伝えたところ、蒲生に所領の空きは出来ないだろうとのことだったので、その旨伝えて帰した。
四日、出仕しなかった。この日は、喜入(季久)殿の御仮屋にて、寄合中(老中)が揃って談合。川内(薩摩川内市中郷付近)から水引(同市水引町、島津薩州家義虎領)に対し、火を立てる(攻撃をしかける)旨、東鄕重尚の連絡はなかったかと、(老中から拙者に)お尋ねがあった。まったくそのような話は知らない旨申し上げた。あるいは、白浜周防介殿(重政、東郷氏庶流)なら知っているかもしれないということになり、我等(奏者)から尋ねたが、彼も聞いていないとのことであった。
五日、相手組の弓矢があった(対戦形式の弓競技?)。平田平二郎殿殿(宗応)が相手であった。この日は拙者が亭主をつとめた。
 この日、殿中において、上原長州(尚近)に相談した。吉利忠澄と相論となり役人共が召し放ちとなった件。吉利忠澄から何も連絡がないので、このまま彼らを召し使ってはならないということでもないだろうから、見参(その役人を引見=再雇用)する旨、(義久に対し上原を通じて)届け出た。吉利からいままで異議申し立てが無いのなら、早々に見参するのがいいだろうとのご回答だったので、彼らを召し寄せ再び役人を申しつけた。
 この日は、大酒を飲んだので、後日のために、瀧聞宗運(奏者)に上原長門守への返事を依頼した。

(解説・補足)
 基本、覚兼がつとめる「奏者」とは、島津本宗家当主義久と、老中(近世の家老)以下家臣や国衆、寺社との「取次」を担う役職です。義久の側近です。
 この期間も、贈答品をやりとりする「八朔」の儀式において、当主義久と御一家(島津氏一門・庶子家)・国衆(非島津氏の有力領主)の取次を担当しています。プライドの高い入来院氏の使者が、贈り物を義久に献上する順番について、祢寝氏の次になったことを承服せず、帰ってしまったようです。それは、伊集院忠棟ら老中の指示だったようですが、使者への応対は覚兼ら奏者の役割であり、とりなしに苦労しているようです。
 2日・3日条からうかがえるように、領内各地の要所に配置された「外城」を所管する地頭や、その地頭配下の「衆中」の移動希望、坊主の寺が欲しいのとの訴えも、覚兼ら奏者が、義久や老中に取り次いでいます。
 ただ、2日・5日条からうかがえるように、みずからが紛争当事者になった場合は、自分では義久・老中に上申できず、同じく奏者の上原尚近に取次を依頼しています。

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大分・別府温泉めぐり 初日 [別府温泉]

 久しぶりの更新です。前回の更新は「別府八湯温泉道」チャレンジの記事でしたが、この間、「九州八十八湯めぐり」なる企画もはじまり、もちろん参加、挑戦中です。
 ということで、両方のスタンプを一気に集めるべく、9月4日から6日まで3日間、大分・別府をめぐってきました。

 別府駅に夕方到着。本日のお宿はこちら↓

別府温泉 御宿 加賀

別府温泉 御宿 加賀

  • 場所: 大分県別府市北浜3-12-14
  • 特色: 築60年の昔ながらの老舗旅館。料理長の心のこもった料理、貸し切りで使えるお風呂で心行くまでおくつろぎください。



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築60年は経つという昔ながらの旅館ですが、アットホームなサービスで清潔感もありなかなかいいお宿でした。「九州八十八湯めぐり」の対象施設です。ウリはこの岩風呂↓
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右奥に勢いよくお湯がでてるのが写ってますが、間欠泉のようにボゴボゴと大きな音をたててます。九州八十八湯めぐりHPの案内によると、「音でも楽しめる機関銃系の珍湯」とのこと。湯船に入って近づくと、振動も伝わってきます。ちなみにこちらは露天風呂↓
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こちらでも勢いのあるお湯の吹き出しが楽しめます。

この「御宿 加賀」は別府北浜にあり、まわりは温泉ホテル・旅館だらけ。早速新年度版がでたばかりの『別府八湯温泉本』を片手にホテルの内湯をめぐります。
まずはこちら↓

別府温泉 ゆわいの宿 竹乃井

別府温泉 ゆわいの宿 竹乃井

  • 場所: 大分県別府市北浜3-10-26
  • 特色: 湯風と潮風のやさしさに包まれ大分旬彩料理と九州八十八湯にも選定される泉は格別♪別府家族旅行に人気♪


 幸いチェックインラッシュの直前だったのか、お風呂に先客はおらず写真も撮れました。
こちらが内湯↓
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こちらが半露天風呂↓
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ここのお風呂は泉質のなかなかいいのですが、眺めもなかなかです。
こちらは南方向。右手の山が猿で有名な高崎山で、左手奥にみえるのは大分市の街並みです↓
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続いてはこちら↓

別府温泉 別府ホテル清風

別府温泉 別府ホテル清風

  • 場所: 大分県別府市北浜2-12-21
  • 特色: 別府湾を一望しながらの絶景露天へ。大分名産の旬食材を堪能できる宿。各交通アクセスも大変便利な立地です。


 散歩した限りでは、北浜地区ではもっとも規模の大きなホテルではないでしょうか?いくつも内湯をもっており、今回は最上階の露天風呂に入ってきました。
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 この日は団体さんが来られているようで、露天風呂もお客さんが多く写真は断念。先程の「ゆわいの宿 竹乃井」さん以上の絶景でした。

 こちらは海岸線沿いの遊歩道でおくつろぎのぬこ様↓
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 湯上がり後は散歩がてら繁華街にでて、老舗レストランの「三ツ葉グリル」で大分名物とり天を堪能↓
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 翌日の温泉めぐりに備えて早めに就寝しました。

鉄輪界隈 [別府温泉]

いちのいで会館でお腹もみたされ、次は鉄輪温泉にむかう。別府駅前に泊まることの多い私としては、未踏の湯が多い地域である。
バスを降りると早速地獄があらわれる↓
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現実社会で地獄はたくさん見ているので、今回はパス[わーい(嬉しい顔)]

まず訪れたのは、おにやまホテル↓
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鉄輪の老舗ホテルで、接客態度がいいこと、露天風呂が広いことでしられる。『別府八湯温泉本』の無料券で入れ、入湯料が800円と少々高めだったのでチョイスしてみました。
残念ながらカメラをフロントに預けてしまったので、写真は無し[もうやだ~(悲しい顔)]
公式ホームページでご確認下さい↓
http://www.oniyama-hotel.co.jp/spa/index.htm

開業当初は、九州一の広さをほこる露天風呂だったらしいのだが、各地に広大な露天風呂ができ、こちらは男女で仕切ってしまったため、現在はさほどの広さではない。とはいうものの、泳げるほどの広さがあり(実際に泳ぐのはマナー違反です)、岸辺でトドのように寝ころぶこともでき、ジャングル風呂のような雰囲気のなか、ゆっくりくつろげる露天風呂でした。
泉源は近くの「鬼山地獄」らしく、かなりの高温。入れる温度に下げるため加水しており、源泉率は50%弱らしい。といっても、源泉そのものがかなり濃厚らしく、お湯の色もにごっている。浴槽の岩には湧出物が茶色くこびりついており、いかにも効果がありそう。ちょっと口に含んでみると、塩化物泉のわりにはさほどしょっぱくはなく、若干金気臭を感じる。
うわさどおり接客態度はとても丁寧で、無料券を出すのが申し訳なかった。一度、宿泊してみたいホテルでした。

つづいて、坂道をくだりつつ、鉄輪界隈のひなびた雰囲気を楽しむ。

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↑大衆演劇の聖地のような「ヤングセンター」。

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↑おはぎで有名な大衆食堂。すごい鄙びぐあいだ。

こんな温泉街のなかほどに、時宗寺院がある。そのなも「温泉山永福寺」。
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『別府八湯温泉本』の説明によれば、豊後国守護大友頼泰が建立したらしい。ちなみに大友頼泰とはこんな人↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E9%A0%BC%E6%B3%B0
たしか島津氏も鎌倉期の菩提寺は時宗寺院だった。京下り官人系の鎌倉御家人には時宗が多いのだろうか?

道路上にはこんな看板が↓
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国の重要文化財に指定されている一遍上人絵巻があるようです。

鉄輪温泉の中心部には現在ちょっとした公園ができている。
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↑こちらは一遍湯かけ上人像。

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↑気になるところにお湯をかけるとよくなるらしい。ちなみに私は頭にかけました。

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説明文によると、そもそも単なる地獄だった鉄輪で蒸し風呂をはじめたのは一遍上人ということになっているようです。古い歴史をもつ温泉地の多くは、寺院がその開発にからんでいるケースが多いようなので、こちらもそうなのでしょう。そういえば、さきほどの永福寺の前にも湯元がありました。

ちなみに、温泉やお風呂は本来蒸し風呂が基本だったようです。湯かけ上人像の前には、珍しい足蒸し風呂(無料)があります↓
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私はあえて、その前にある本格的な蒸し風呂に挑戦しました↓
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もともとは湯かけ上人像付近にあったようですが、三年前に立て替えられたそうで、趣のある建物ですが、内部は近代的で清潔です。
まずは陰部をあらい、レンタルした浴衣に着替えて蒸し湯に入ります(持参のTシャツ・短パンでも可)。こちらがその入口↓
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内部は、立つと頭がつかえるほど狭く、白熱灯が4つあるだけの暗い部屋です。暗所恐怖症・閉所恐怖症の方はむりでしょう。床には薬草がひいてあり、その上に仰向けで横たわり、石の枕に濡れタオルをのせて頭を載せます。本来は10~15分くらい入るようですが、案内のおばさん(釜番というらしい)によると夏場は特に暑いのでまず8分とのこと。タイマーがなったら「大丈夫ですか?」と声をかけてくれます。室温は80℃弱で普通のサウナ並ですが、薬草独特の臭いと暗さ・狭さから長時間は難しそうです。ただ、効果はサウナ以上で、いままでにかいたことのないくらい大量の汗をかきました。くわえて、慢性鼻炎があるのですが、鼻通りがかなりよくなりすっきり感は抜群です。
おばさんに促されて部屋をでるとふらふらです。水分補給がぜったいに必要です。
あがったあとは浴衣を脱いで、こちらの浴槽で体を洗います↓
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古来からの入浴方法に従っているため、水風呂がないのがサウナ好きとしてはもったいない気もしますが、今までに感じたことのないすっきり感というか、充実感がありました。サウナが大丈夫な方は、是非挑戦してください。近くにあるなら、やみつきになりそうです。

サウナ嫌いの方には、公衆浴場がおすすめです。
蒸し湯の前には、渋の湯↓があるほか、
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歩いて5分以内に、上人湯↓
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筋の湯↓
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などなど様々なタイプの温泉があります。
やっぱり鉄輪は温泉好きにとって聖地ですね。

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別府 いちのいで会館 [別府温泉]

大分県別府市では、「別府八湯温泉道」というスタンプラリーをやっている。別府市内には100か所以上の公衆浴場・温泉旅館・ホテルが存在し、そのうち88か所をまわってスタンプを集めると、名人の称号がもらえるのである。8か所ごとに段位がもらえ、段位取得ごとに記念のタオルももらえる。詳しくはこちら↓
http://www.beppu-navi.jp/onsendou/

わたしも一昨年からはじめているのだが、昨年はいそがしくて一度もこれず、今回ひさしぶりの別府入りとなった。
別府駅前には、油屋熊八の銅像ができていた。
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亀の井ホテル・亀の井バスの創業者で、観光地別府の生みの親らしい↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B9%E5%B1%8B%E7%86%8A%E5%85%AB

駅近くの本屋で、温泉道のバイブルともいえる『別府八湯温泉本 2009-2010年版』を購入。この本は、温泉やグルメなどの情報が載っているほか、無料入湯券や100円割引券がついて350円。つまり、350円以上の入湯料の施設に入れば、もとがとれる。
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ひだりがスタンプをおしてもらうパスポート。毛沢東語録ではない[わーい(嬉しい顔)]

今回の1湯目は、ラクテンチの北側に位置する「いちのいで会館」。仕出し屋さんがやっている温泉で、温泉のみの利用は不可。夏期は松花堂弁当、冬期は大分名物だご汁定食を食べると、おまけとして入浴できるのである。青みがかった不思議なお湯と、雄大な眺めで温泉好きにはかなり有名なところである。
近年、一時休業していたらしいのだが、今年に入り復活したとの情報を得、今回腹を空かしていくこととした。
別府駅からスギノイパレス行きの亀の井バスにのり、雲泉寺橋バス停で下車。地図をたよりに徒歩で向かう。
ただ、これは深く後悔[ふらふら] ネット上の情報どおり、このようなしゃれにならない急峻な坂道を10分以上登るはめに↓
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この坂道を登り切ると、ようやくお店が見えてきた。
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店員さんに言われるがままに2階に上がり、先にお風呂にと促される。

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こちらのお風呂は2種類。金鉱の湯と景観の湯。素晴らしい眺望でしられるのは後者なのだが、残念ながら奇数日のこの日は、金鉱の湯が男湯。

しばらく山道を歩くと見えてきた↓
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お風呂は上下2段に分かれてこんな感じ↓
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確かに、青みがかった不思議な乳白色。特に臭いはしない。温度はかなりぬるめで、40度ないだろう。うだるような熱さのなか、坂道で汗だくだったので助かった。ただ、冬場はどうなるのだろうか?

景観の湯ほどではないが、若干眺望も広がっている↓
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お風呂の背後には滝もみえて野趣あふれる露天風呂でした。
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ちなみに露天風呂の横には古めかしい天然蒸し風呂もある。
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扉はなくもうもうと湯気が出ており、温度が保てるのか疑問だったが、中にはいると心配ご無用。源泉は相当高温らしく、奥に入ればかなりの温度。80℃くらいはあるだろう。ただ、午後から鉄輪の蒸し風呂に入る予定なので、早々に退散。

母屋にもどって、大広間で松花堂弁当をいただく↓
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本日のメニューは、大分名物とり天、焼き魚、卵焼き、野菜の煮物、酢の物、ひじき等々。弁当なので冷めているだろうと思ったのだが、とり天は暖かかった。味付けも自分好みでおいしくいただきました[レストラン]
別府温泉めぐりでは欠かせない1湯です。次回はぜひ景観の湯に入りたいものです。


タグ:温泉
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フェニックスシーガイアリゾート 松泉宮 [宮崎の温泉]

久しぶりに温泉レポートを。
シーガイアというと、「破綻」のイメージが強く、宮崎県外ではもう営業していないと思っている人も多いようであるが、どっこいがんばっている。外資が入ってそれなりの経営続けているのである。
経営が変わって最初におこなったのが、温泉の導入であった。といっても高級リゾート。ふらっと入れるような金額ではなく、ふつうの大浴場に日帰り入浴するだけで、2000円もする[がく~(落胆した顔)] 宮崎県民はサービスで1500円。
温泉にこの値段はいかがなものかと思い、これまで敬遠してきたのだが、なかなかの評判なので行ってみました。場所はこちら↓

シェラトン・グランデ・オーシャンリゾート


シーガイアの中心施設「ホテル シェラトン・グランデ・オーシャンリゾート」のなぜか3階が入口、わざわざ専用のエレベータで1階まで下りて渡り廊下というか回廊を温泉まで歩いていく。

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こちらが、3階からみた松泉宮。中央上の瓦葺きの建物が温泉。手前の細長い瓦屋根が回廊。雰囲気は期待を持たせます。

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こちらは回廊から見たホテル側。ホテルの正面からみるとただの近代的鉄筋コンクリートの建物なのだが、温泉側から見ると古い温泉旅館のような風景。なんだか「千と千尋の神隠し」に出てくる銭湯を思わせる。
手前はプール。7月からオープンとのこと。

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まだまだ回廊は続く。この日は結構暖かかったいいものの、真冬に浴衣に丹前だと確実に風邪を引きそう[ふらふら] ちなみに背後に見えるのは、閉鎖されたまま放置されている「オーシャンドーム」。開閉式の屋根を持つ全天候型プールで、予想以上に利用者が少なく、一昨年の9月に閉鎖された。明らかに和風な松泉宮の景観を壊している[もうやだ~(悲しい顔)]

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こちらは回廊横の庭園。浴衣のレンタルもあり、こうした庭園を眺めながらの散歩が楽しめるようになっている。くれぐれも冬は止めた方がいい。夜はキャンドルが灯されるようだ。

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ようやく温泉本体に到着。純和風な造り。古い材木も使用されているようである。

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こちらは内湯。浴槽は御影石っぽい感じで、清潔感がある。浴槽の三方は窓で明るい感じ。外には松林がひろがる。建物は前記のように古い木材を使用しているようで、雰囲気はいい。かなり落ち着く感じ。
入浴料が高いだけあって、洗い場にはボディーソープ・石鹸、そしてリンスインシャンプーではなくて、シャンプーとコンディショナーが別々に備えてあった。
肝心の泉質だが、弱アルカリ性の強食塩泉。なめるとかなりしょっぱいが、風呂上がりはベタつくこともなくさっぱりで気持ちよかった。若干茶色っぽい色がついており、同じ日向灘に面した新富町のサンルピナス(http://www.mapple.net/spots/G04500008002.htm)を薄くしたような感じ。ただ、臭いはほとんど感じない。
残念ながら加水・加温の循環であるが、カルキ臭はなく、清潔感もあって、個人的には好印象であった。

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こちらは更衣室からみた露天風呂。東屋風の屋根がついている。松林の真下にあり、毛虫も少々浮かんでいた[ふらふら] 女性にはちょっとキツイか。まあ大自然のなかの露天風呂という雰囲気は味わえる。右奥にみえるのがサウナ。乾式でなかなかの高温。水風呂や松林から吹いてくる海風で涼みながら何度か出たり入ったりして、こちらも堪能。

風呂あがりは、無料休憩室のソファーでくつろいで、無料のお水をいただく。
値段は少々高めだが、くつろぎの場としては十分な価値があると思う。2度目は千円で入れるチケットももらえたし、私は合格点をあげたい。500円以下の日帰り浴場もいいのだが、入浴者も多く生活臭がただよう。それが悪いというのではないが、たまの休みにゆっくり癒されたい気分の時、こうした場があるのはありがたい。県外からのお客さんを連れて来るもよし、宿泊してじっくり楽しむもよし。
ただ、私が行ったのは月曜の真っ昼間。土日祝日、夏休みにどの程度の人出なのかは分かりませんので、悪しからず。


タグ:温泉
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大淀地区の気になるポイント その2 [宮崎の史跡]

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こちらは、前回の古戦場跡から1.7kmほど北に位置する蓬莱山長久寺(宮崎市大塚町)。場所はここ↓

長久寺


この地は中世、日向国総田数の25%を占める宇佐宮領のひとつ、大墓別符(おおつかべっぷ)である。

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こちらは、大塚町の西に位置する大塚台団地から大墓別府を望んだ写真。少々写りが悪いが、右側に森のようにみえるのが、先程の長久寺の裏山にあたる。察しのいい人ならお気付きだろうが、中世の山城である。
土持文書(宮崎県総合博物館寄託)所収「田部姓土持氏系図」には、土持新兵衛尉宣栄の項に「建武二年宮崎大塚蓬莱山ニ居城ス」とあり、この蓬莱山が写真に見える長久寺の裏山と考えられている。
土持氏は、宇佐八幡宮(大分県宇佐市)の祀官四姓(宇佐・大神・田部・漆島)のひとつ田部氏の一流とされ、日向国内に分布する宇佐宮領の「封戸郷司」あるいは「封郡司」として入部し、中世後期に至るまで日向国を代表する在地豪族として各地に盤踞した。その一族は「土持七頭(党)」と呼ばれ、そのひとつが大塚土持氏。その南北朝期初頭の当主が新兵衛尉宣栄である。南北朝前期には多くの文書でその動向が確認でき、日向国大将・守護の畠山直顕の配下として各地を転戦し、建武4年(1337)5月には、畠山直顕から大墓別符地頭職に補任されている。蓬莱山を居城としたのはこの頃であろうが、おそらくそれ以前から大墓別符周辺の宇佐宮領は同氏の基盤だったのだろう。

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看板にもあるように、ここの本尊である木造六観音像は、室町末の作とされ市の有形文化財に指定されている。これ以外にも、永禄6年(1563)の銘の残る弘法大師蔵が、昨年、同じく市の有形文化財になっている。

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境内には古石塔がいくつかならぶが、これらは近世のもの。

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こちらの六地蔵塔は、天正16年(1588)の紀年銘が確認できる。まあ、明治4年(1871)に一度廃寺になったせいか、石塔の残り具合は芳しくない。

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蓬莱山の頂上には、西国八十八か所めぐりの仏像がならんでいるものの、樹木が鬱蒼としており、期待していた眺望はあまりよくなかった。

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それでも東側は木々の間から若干眺望が開けている。中央に見える橋は大淀川に架かる高松橋。
山城として機能していた頃は、眼下に大墓別符全域がひろがり、そこから大淀川河口にむけて一望できたのであろう。

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一方こちらは、長久寺から北北東400m弱に位置する大塚八幡神社。場所はここ↓

大塚八幡神社


宮崎県内にはやたらた八幡宮が多い。これは先述のように、日向国内各地に宇佐宮領が分布していたためで、各荘・別符の鎮守として八幡社が勧請され、宇佐宮支配の宗教的・政治的中核として機能したのであろう。
そう考えると、この大塚八幡神社から長久寺かけての地が大墓別符の中心地であることは間違いないだろう。

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この神社の由緒書。日向国内の宇佐宮領の成立は11世紀半ば以降とされるので、斉衡年間は眉唾[わーい(嬉しい顔)] ちなみに、土持景綱は土持氏系図にはよく出てくる名前だが、大塚土持氏の直系の先祖ではなく、財部(現在の高鍋町)を拠点とする財部土持氏の祖とされる人物。




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大淀地区の気になるポイント [宮崎の史跡]

きよたけ歴史館の企画展「宮崎の関ヶ原合戦 清武城主稲津掃部助の戦い」を見た帰り、宮崎市の大淀川右岸、大淀地区の気になるポイントを見て回る。

まずは昨年開通した、宮崎市大坪町と清武町加納を結ぶ国道269号線バイパス(通称加納バイパス)途中にみえる古石塔。場所はここ↓

正八幡神社


宮崎市大字恒久字諏訪だと思う。

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バイパスのすぐ西隣に鎮守の森のような光景。

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こちらが右側の神社。字名は諏訪だが、なぜか「正八幡宮」。

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こちらが神社のすぐ隣の古石塔群。左右にそびえる六地蔵塔が目立つ。

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下部には四方に種子(梵字)が刻まれている。

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よく見ると、「永正十八年辛巳三月廿一日」と紀年銘が確認できる。西暦1521年。宮崎平野全域が都於郡城主伊東尹祐の支配下に入っており、尹祐はこの前後には都城盆地に度々侵攻している。

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六地蔵塔の背後には、板碑や無縫塔が整然と並ぶ。右手前の無縫塔は銘からみて幕末の僧侶の墓。寺跡とみて間違いないだろう。これ以外のものもほとんど近世の年号のようだ。

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その背後には、大量の石塔類の残骸がうずたかく積まれている。おそらく、神社前のバイパス工事中に出土したものだろう。

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こちらは、石塔群から振り返った風景。バイパス背後に見える建物群は野崎病院。中世の山城である曽井城跡にたつ。室町から近世初頭にかけてたびたび史料に現れる城で、大淀川河口域南岸の要衝である。


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さてこちらは、さきほどの古石塔群から北西約1kmの距離にある花山手団地の標識。場所はここ↓

日柱合戦古戦場


ここ10年ほどで整備された新興住宅地なのだが、「合戦坂」に「能登坂」と、ずいぶんと歴史を感じさせる通り名である。
「合戦」とは、天文2年(1533)9月の日柱合戦のことで、「能登」とは、この合戦で討ち死にした「長倉能登守」のことである。長倉能登守は伊東家家臣で、前出の伊東尹祐没後の家督相続をめぐる紛争に巻き込まれ、伊東氏に反旗を翻してこの地で合戦に及び、討ち取られたのである。おそらくこのあたりの新しい住民達は、この標識の意味も分からず家を買ってしまったのだろう[がく~(落胆した顔)]

この団地を造成する際、長倉能登守の墓とされる板碑が発見された。墓の下からは比較的新しい時代の馬の骨が出土したらしく、発掘担当者は原因不明の発熱で苦しんだという。住宅地ということでこの板碑は現地保存されず、現在は蓮ヶ池史跡公園内の石塔のはらっぱで保存されている。写真はこれ↓
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発見時にはすでに二つにおれており、断面近くに「天文」の紀年銘が確認できる。墓台は、明治になって新興宗教団体がつくったもの。

この石塔の詳細を知りたい方は、甲斐亮典「『長倉能登守』の供養碑」(『森の風』5、1998年)をお読みになるか、みやざき歴史文化館にお問い合わせ下さい。

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日当山温泉「しゅじゅどん温泉」 [鹿児島の温泉]

鹿児島県霧島市、旧隼人町は江戸時代から続く古い温泉が多い地域です。そんな古くからの歴史をもつ温泉のひとつである日当山(ひなたやま)温泉に行ってきました。
日当山温泉には、高級旅館から地元のひとが入る公衆浴場までいろんなタイプがありますが、私のお気に入りのひとつが、今回の「しゅじゅどん温泉」。
「しゅじゅどん」とは、江戸時代に実在したとんち好きの地頭のあだな。漢字で書くと「侏儒殿」で、「しゅじゅ」とは体の小さい人という意味らしい。本名は「徳田大兵衛」です。詳しくはこちらあたりをどうぞ↓
http://www.youdocan.ne.jp/mukasi/hinatayama.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E7%94%B0%E5%A4%A7%E5%85%B5%E8%A1%9B

話を温泉に戻しましょう[わーい(嬉しい顔)]
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こちらが外観。コンクリート造りの素っ気ない建物です。手前の車は私の愛車プリウスです。

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こちらは更衣室。質素で古い感じですが、清掃は行き届いており、清潔感があります。

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更衣室入口の上にはなにやら古い看板が・・・。

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ちょっとぶれてますが、効能書と入浴者の心得です。相当古いもののようで、ちょっと今ではまずいような表現も見られます[ふらふら]

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こちらが浴室。シンプルな浴槽が並んでます。写真には二つしか写ってませんが、大きく3つに分かれてます。左から上湯・下湯で、右端には寝湯のような浅い浴槽があります。上湯が少々熱くて、下湯はぬるめ。こちらでは、最初にぬるめのお湯で掛け湯をして、下湯から入るのが流儀のようです。はじめて来た場合は常連さんか、番台のかたが入り方を解説してくれますので、気軽に聞きましょう。

泉質は単純泉で、無色透明無臭の何の変哲もないお湯ですが、とてもやわらかくて肌に馴染む感じがとても気に入っております。周辺にはいくつか安くて気軽に入れる公衆浴場がいくつもありますが、お湯が激熱なところもあります。そんななか、こちらはこの季節けっこうぬるめなのが助かります。今日もぬるめの下湯でじっくり入ってきました。こちら近くにお越しの際は、是非お試し下さい。

場所はこちらです↓

しゅじゅどん温泉



住所:霧島市隼人町東郷119
電話:0995-43-6797
営業時間:5:00~22:00
入浴料金:¥200 休憩室もあるようですが、料金等は不明です。

湯之谷山荘 [鹿児島の温泉]

霧島界隈の温泉で、いかにも昔からの湯治場という風情では1、2を争う「湯之谷山荘」。最近リニューアルされたとの噂を聞いていってみました。

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こちらが玄関。建物自体もリニューアルされているような気がします。

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浴室(男湯)はこんな感じ。お客さんがいてちょっと控えめに撮影したので、左側が少し切れてます[もうやだ~(悲しい顔)] 木製の浴槽が新しくなってます。加えて、もとからあった二つの浴槽(奥の大きいやつと、手前の小さいやつ)の間にもうひとつ浅めの浴槽が追加されています。寝湯っぽい浅さです。
確か、以前からあった浴槽は泉質が違うはずです。奥が硫黄泉で、手前がラムネ泉だったような記憶があります。奥はほどよい熱さですが、手前は冷泉。交互に入ると長く入っていられます。真ん中にできた浴槽は、両方のお湯が流れ込むような仕組みになっており、温度も中間。

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ちょっとブレてますが、新設された洗い場。シャワーもついてます。以前は、浴槽の隣で皆さん体を洗ったり洗髪してました。しぶきが浴槽に入りそうで気をつかう必要がありましたので、ありがたいです。これでワシワシ洗えます[わーい(嬉しい顔)]


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こちらは更衣室にある洗面台。ドライヤーは前からあったかな?

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同じく更衣室にある成分表。年季が入っています。

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館内のあちこちに手書きの注意書き等が貼ってあります。源泉掛け流しが強調してあります。
確かに、大雨の後に行くとぬるかったりします。
1時間くらい入ってましたが、体全体が硫黄臭くなって、いかにも温泉に入りましたっていう気分になれます。
リニューアル後も大変満足できる温泉です。



霧島湯之谷山荘




住所:霧島市牧園町高千穂4970
電話:0995-78-2852
営業時間:入浴のみは、10:00~15:00(露天風呂は宿泊者専用になってます)
入浴料金:大人500円。1000円で休憩室が利用できるようです。


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